ドングリを植える



   「木を植えた男」という、フランス人の作家が書いた物語がある。

   ひとりの旅人が、荒涼とした山岳地帯を旅している途中、ある中年の男に出

  会った。その男は、数年前から一人で山小屋に住み、誰の土地とも知らぬまま、

  ナラ、クヌギなどのドングリを、籠いっぱいに背負いこんで、その原野に植え

  ていた。理由を尋ねても、その男は多くを語らなかった。

   その後、旅人は、その男のことが気になり、旅するごとに、その原野を訪ね

  るのだが、相変わらず、黙々とドングリを植えていた。

   やがて、それは広大な森にかわった。周囲の村の人間は、突然のようにでき

  た森に驚いた。まもなく、そこには人々が住み始め、町が出来上がる。その木

  を植えた男はというと、すっかり老いてしまって、近くの養老院で暮らしてい

  た。そして、誰にも知られることなく、ひっそりと死んでいった。

   はたして、この主人公は孤独でさびしい人生だったであろうか。あるいは、

  死ぬ前に自分の行為を町の人間に知ってもらい、みんなから感謝されることを

  望んでいたのだろうか。

   男の生涯は、振り返ってみれば、しあわせだったのだと思う。しあわせと

  は、そもそも外の世界に求めて得られるものではない。目標を持ち、努力し

  て、その結果に得られるものがしあわせだと、思っている人がいる。しかし、

  それは束の間に通り過ぎ、その成功のために、苦しむ人間も少なくない。

   本当のしあわせとは、苦労して「つかむ」ものではなく、どんな境遇でも

  「感じる」ことができるものだと思っている。大事なことは、外の世界のあら

  ゆるものに触れるだけで、しあわせと感じられる、「しあわせなこころ」を持

  っているかどうかだと思う。

   それでは、どうすればそんなこころを持つことができるのだろうか? ひと

  つの方法として、こころの中に、気に入るもの、気に入らないもの、どんなも

  のも貯め込まず、空きスペースを持ったらどうだろう。そんな余白がこころに

  あれば、たとえば庭先のチューリップが咲いていれば、その花のうつくしさ

  が、こころの余白に、すーっと入り込んでくるような気がする。

   木を植えた男は、木が成長してくれればいいと願いながらも、後先の余計な

  ことは考えず、ドングリを植える行為そのものに、しあわせと感じることがで

  きた人間だったのではないか。そんな「しあわせなこころ」を、持ちたいもの

  である。