いとこの伸ちゃん


 「雅ちゃん、こっちへ来いよ」
 水中メガネをしたまま、川から顔を上げた伸介が、雅之を手招きしていた。岸辺の大きな丸石に腰を掛けていた雅之は、あわてて川に飛び込んで、伸介の方へ近づいていった。
 雅之は念入りに水中メガネをかけたあと、大きく息を吸い込んでから、頭を潜らせた。
 水中には、伸介の人差し指が、岩と岩との隙間を指し示していた。隙間の奥には、精悍な顔をした大きな岩魚が、雅之を睨んでいた。雅之は慌てて顔を水面に上げた。それから、深呼吸をして息を整えると、ふたたび潜り込んだ。
 一瞬の間をおいて、伸介のヤスが岩魚の胴体めがけて、一気に突き刺さった。ぶるぶるっとヤスが大きく震えると、川底の砂が舞う中、川底に押し付けられた岩魚が、白い腹をみせていた。帰り際、伸介は柳の枝に吊るされた大岩魚を、雅之に突きだした。
「これ、持って帰りな」
 伸介が誇らしげにいうと、雅之は黙ってそれを受け取った。ずっしりとした重みが、雅之の腕に伝わってきた。伸介は、雅之の七つ年上の従兄だった。
 夏休みが終わったある秋の日、雅之が伸介の家に遊びにいくと、玄関には伸介の母親が出てきて、(悪いけど、高校受験で忙しいから遊べないよ)といわれた。 それでも、雅之はこっそり家の裏へと回ってみた。
 少し遠眼から伸介の部屋を覗くと、机に座ってぼんやりしていた伸介の姿があった。雅之に気づくと、窓ガラスを開けて、手招きしていた。雅之は、靴を外に残したまま、こっそり部屋にもぐり込んだ。
「おれって、勉強、苦手なんだよね」
そう言うと、伸介は椅子に背をもたれ、両手を天井に向かって伸ばした。
「ねえ、いつものジェット戦闘機、描いてくれる?」
雅之に頼まれると、伸介の眼は急に輝き、勉強道具を脇に追いやり、ノートを一枚破って描きはじめた。小さな丸椅子にすわった雅之は、伸介の真剣な顔と絵を描く右手を、黙って交互に見比べた。絵を描いてもらった雅之は、再び窓の外から出て行った。
 あくる年の春、伸介は高校受験に失敗した。定時制高校へと進んだ伸介は、その後高校を辞めたという話を、雅之は両親から聞かされた。その後、雅之は伸介と会うこともなくなっていた。
 それから八年たった、ある夏の日のこと。雅之の家に伸介がとつぜん訪ねてきた。その日に、夜釣りにいかないかと誘ってきた。伸介は、中古の車を持っていた。

 黒鯛を釣るつもりだと、伸介はいった。ふたりが海辺にたどり着いたとき、太陽は地平線に接したばかりで、海は赤く染まっていたが、堤防の先にたどり着く頃には、すでに黒ずんでいた。頭上には、無数の星が瞬きはじめていた。
 雅之は、伸介に作ってもらった仕掛けにゴカイを刺し、電気浮きとともに、海へと放りこんだ。海は穏やかにうねり、月光に照らされた水面は、きらきらと光っていた。その光の波に埋もれるように、小さく光る赤い電気浮きを、雅之は眼で追い続けた。堤防にぶつかる波のほかに音はなく、しずかな夜だった。
 餌を数回ほど付け替えたころ、伸介が口をひらいた。
「雅ちゃん、今年から高校か、Y高に行ってるんだって。頭いいんだな」雅之は、電気浮きから眼を離さずに、伸介に聞いた。
「伸ちゃん、いま何やってるの?」
「おれさぁ、定時制やめてからしばらく働いたん、結局、別の定時制に通ってるんだ。今年から四年で、順調なら来年卒業の予定。雅ちゃんとは学年で七つ違うのに、三つ違いになっちゃったな。二十三にもなって、まだ高校に通ってるんじゃなぁ・・・」
そういうと、伸介は自嘲気味に低い声で笑った。
「でも、先のことは、わかんないよ」
「そりゃあ、生きていればいいこともあるって、人はいうけど、それって、幸せな人間が、不幸せな人間に言う慰めみたいな感じがしてさ、どうも・・・」
 話が途中で切れたので、ふと見ると、伸介の竿が大きくしなっていた。リールが唸り声上げて、素早く回転していた。雅之は黒い海を見つめ、魚が姿を現すのを、じっと待った。やがて、一尺を超える黒鯛が、堤防近くの水面に浮かび上がってきた。
  黒鯛を見るのは、雅之にとって初めてだったが、それは月光に照らされ、銀色に輝いていた。獲物を釣り上げ、クーラーボックスに入れたあと、伸介は雅之のほうを向いてから口をひらいた。
「やっぱ、雅ちゃんの言うとおりかもね。おれみたいに才能もなくて、努力の出来ない人間でも、先のことは分かんないね。こういうこともあるしさ」
 そう言って、伸介はにんまりと笑ったが、雅之は笑いもせずに言った。
「才能がないとか、努力できないとか言ったけど、才能があっても、努力できても、悪い人間じゃ幸せになれないよ。伸ちゃんみたいに、いい人間のほうが、しあわせになれるに決まってるよ」
 伸介はクーラーボックスの前に、背中を丸めてしゃがんだまま、黙っていた。見ると、餌を付け替えていた手が、止まっていた。
 そのあと、会話もそこそこに、ふたりは釣りに熱中していった。気づくと、山の稜線から、空が白みはじめていた。伸介は、黒鯛を三匹、雅之は、一匹釣りあげていた。
 帰り道、海岸線を歩いていると、砂浜に一本の灌木が生えていた。ハマナスだった。枝葉を四方に広げているその中に、季節外れに咲いた赤い花がひとつだけ、朝日に照らされ、輝いていた。