子豚の茶巾箱


 圭一は、ひとりうつむき加減のまま、ダイニングの椅子に座っていた。グラスを傾けるごとに、あらたに作られるウイスキーの水割りは、その色を濃くしていた。皿に盛られたナッツはすっかりなくなり、その殻がテーブルの上に散らばっていた。一週間前、圭一は職を失 っていた。
 11階のマンションから見える空は、夕焼けの空に染まり始めていた。ベランダの窓からは、弱くなった日差しが、圭一の座っているテーブルの上を、蜜柑色に照らしていた。
「おとうさん、だいぶたまってきたよ」
機嫌を伺うように、控えめな低い声で、佳奈は子豚の貯金箱を抱えて近づいてきた。圭一の隣に立ち止まると、少し誇らしそうな顔つきで、その貯金箱を両手で振って見せた。
 子豚の体の中から、硬貨が詰まった重そうな音が響いた。
「ほら、持ってみて」
 娘の声に、圭一は首をわずかに傾け、視線を右に移した。佳奈の視線を感じて、圭一は仕方なさそうに、その子豚をつかむと、佳奈の真似をして、小銭の量をたしかめるように、左右に振ってみた。その時、子豚が圭一の手から離れた。
 子豚の体重が予想以上に重かったのか、それとも圭一の酔いがまわっていたせいか、子豚は放物線を描きながら、床に落ちていった。
「あっ・・・」
 ちいさな叫び声が、佳奈の口から漏れると同時に、鈍い音が部屋に響いた。佳奈の眼は、地面に落ちた子豚に視線を合わせたまま、大きく見開いていた。
 圭一は、佳奈を見ることなく、黙っていた。佳奈は、圭一から何も声を掛けてもらえないとわかると、隣のリビングにいる母親の元へと走り出していた。
 まもなく、母親の手に引かれて佳奈がやってきた。テーブルの下には、子豚のおしりが壊れ、周囲には銀色や赤銅色の小銭が、固まったまま飛び出していた。母親と佳奈はしゃがんだまま、砕けた欠片と小銭を拾い始めた。
「お母さん、これ、なおる?」
 消え入るような声で、佳奈が見上げるようにして、母親の顔をのぞき込んでいた。
「もとに戻るかわからないけど、接着剤でやってみようね」
 母と娘が全てを拾い上げると、圭一と目線を合わせることなく、隣の部屋へ移っていった。まもなく、小さな声が漏れてきた。
 圭一を責める言葉ではなく、つらいことがあったのだから許してやって欲しいと、佳奈をなだめる母親の声だった。
 それを耳にした圭一は、グラスでテーブルを強く叩いた。やがて、椅子から離れる音がすると、足音は玄関に向かっていき、ドアが閉まる音が聞こえてきた。
 外に出てみると、雲は黒くなって夜空に溶け込み、地平線の近くだけがわずかに赤く染まっていた。土曜の夕方だけあって、住宅街は人通りが多くなっていた。 
 圭一は、両手をポケットに突っ込み、下を向いて歩き始めた。駅前通りを、ぶらぶら歩いていたが、圭一には行くあてがなく、気づくとある方角に向かって歩き出していた。
 いつもは車で通る道路を一時間近く歩きまわってから、圭一はある小さな店に足を止めた。ショーウインドーを覗くと、閉店間近にもかかわらず、客が数人残っていた。
 ドアを開けると、迷わず店の隅にある飾り棚へと進んで行った。するとそこには、佳奈に買ってやった子豚の貯金箱が、まだ飾られていた。
 子豚は淡いピンク色をしていて、赤と黄色でできた花飾りが、首に掛けられていた。背中には、小銭を入れる穴が開いていた。
 マンションに戻ると、夜の11時を過ぎていた。ドアをあけると、音はなかった。ダイニングに入ると、テーブルが明かりに照らされ、圭一の夕食の分が残されていた。その脇にはガラスのコップにたっぷりと水が入り、ひとかたまりに束ねたクローバーの白い花が、差し込んであった・・・佳奈だと思った。
 圭一は、佳奈の部屋へと向かった。右手には紙袋が下げられていた。ドアの小さな窓から、わずかにオレンジ色の光が漏れていた。
 ノブをゆっくり回して中に入ると、ベッドに佳奈が寝ていた。音をたてないように近づくと、小さな寝息が聞こえてきた。圭一は紙袋から小さな箱を取り出し、音をたてないように、ゆっくりと開けた。
 中から、新品の子豚の貯金箱が出てきた。それをベッドに備え付けてある、小さな棚に置こうとした時、圭一の手がとまった。
 そこには、すでに壊れた子豚が置かれていた。その貯金箱をそっと取り上げると、それは小銭が入って重くなっていた。よく見ると、壊れたおしりは、接着剤で修理されていた。
 それでも、ところどころが細かく砕け、修理できなかったところが、穴の開いたままになっていた。
 その貯金箱を眺めてから、圭一は佳奈の寝顔を、じっと見ていた。悲しそうな顔はどこにもなく、無垢な顔をしていた。
 圭一は、貯金箱を元どおりに置くと、自分が買ってきた新しい貯金箱を、ふたたび箱に入れ、紙袋にしまいこんだ。 圭一は、ポケットから財布を取り出し、小銭をいくつか拾い上げると、壊れた貯金箱に差し込んでいった。
 小銭がひとつ落ちるたびに、カシャ、カシャ、という音が、しずかな部屋に響いた。その音に反応するかのように、佳奈が寝返りをうった。