森のお医者さん

   

    ノーサイド

 受験モードに入っているクラスで、小西貴史はただひとり部活を続けていた。冬が近づいていたが、ラグビー部のキャプテンだった貴史は、受験を理由に引退することはできず、それがこの高校のラグビー部の伝統にもなっていた。
 そんなある日、休憩時間のことだった。貴史が、机の間の通路を通って廊下に出ようとしたとき、女子が数人、机をとり囲んで喋っていた。
 その中に、貴史が思いを寄せていた、留美がいた。留美は、机に両手をついて腰を突き出すように立って、机と机の間の通路をふさいでいた。
 近づいてきた貴史に気づいた留美は、すこし腰を伸ばして通路を広げた。貴史が通り抜けようとしたそのとき、留美の腰が突き出たように見えた。その瞬間、留美の尻と貴史の太ももとがぶつかった。
「あっ、ごめん」
思わず貴史が謝ると、留美はすっと立ち上り、振り返ってから、貴史を見つめた。そのあとの会話は、何もなかった。
 たった、それだけのことだった。そのことが、しばらく貴史の頭から離れなかった。
(もしかして、わざと尻をぶつけてきたのか?)そんな気がしていた。だが、それだけで留美が自分に気があるかもしれない、などと思うのは自分勝手な思い込みに過ぎない、貴史はそう自分に言い聞かせた。
 貴史のチームは、順調に勝ち進み、決勝戦へと勝ち上がっていった。だが、花園への切符は手に届かなかった。ノーサイドの笛が鳴ったあと、貴史は、芝生の上につっぷして泣いていた。
 試合が終わってから、ピッチを後にするとき、応援席からねぎらいの拍手が聴こえてきた。貴史がふとスタンドを見上げると、応援席の中に、留美の姿があった。留美が、じっと貴史を見ていた。そのとき、留美の尻とぶつかった時の視線が頭をよぎったが、もうどうでもいいと思った。
 留美に思いを寄せながら、貴史は告白することなく、まともに言葉を交わす機会もないまま、高校を卒業した。ふたりとも、東京の大学へ進学していた。
 貴史は、大学に進学してもラグビーを続けていた。夏には太陽に肌を焦がし、冬には寒風に肌を晒し、いつもジャージ一枚で泥にまみれていた。
 大学は、ラグビーでは名門だったが、四年になった時には、レギュラーを獲得していた。ラグビー推薦でなく、一般入学の中でレギュラーを獲得したのは、15人の中で貴史ひとりだけだった。
 就職は、一応内定していた。しかし、大学の進学もそうだったが、卒業後の就職も、いつもラグビーを優先するため、希望通りの道に進むことはできなかった。
 好きで続けてきたつもりだったが、振り返ってみると、ラグビーがそんなに楽しかったわけではなかった。進学や就職を後回しにしてまでも、なぜ、ラグビーを優先してきたのか?ラグビー生活が終わりに近づいて、貴史は自問自答していた。
(ラグビーには、One For All、All For Oneという言葉がある。一人はみんなのために、みんなは一人のためにという意味だ。
 得点をした選手が派手なガッツポーズをする姿は、ラグビーに限っては、ほとんどない。その理由はこの言葉にある。このトライは皆で取ったトライだ、という意識がある。喧嘩のようなぶつかり合いもするが、罵倒を浴びせあうことはなく、審判の判定にも決して抗議はしない。
 ラグビーだけが持つ言葉、ノーサイド。試合終了のホイッスルが鳴れば、お互いの健闘を称え合い、いがみ合うことは決してない。これが、ラグビーの魅力だ)、貴史はそう思った。
 大事な試合がやってきた。これに勝てば、全日本大学選手権に出場でき、負ければ、リーグ戦で敗退する、貴史にとっては、引退をかけた試合だった。
 その日は細い雨が朝から降り続き、晩秋にしても、かなり冷えこんでいた。屋根つきのスタンドには、各大学の応援が詰めかけ、ベンチはほとんど埋まっていたが、反対側の屋根のないスタンドは、観客はほとんどいなかった。
 青とオレンジのツートンカラーのジャージに身を包んだ貴史は、雨で蒼く光り輝いた芝生に向かって、駆けていった。
 試合開始のホイッスルが鳴った。ボールが雨で滑り、思うようにコントロールできなかった。アクシデントによるトライが続き、パス回しを得意とする貴史のチームには、不利だった。
 試合は接戦だったが、最後に相手にトライを許したあとに、ノーサイドの笛が鳴り、貴史のラグビー人生は終わりを告げた。選手たちは、うなだれ、涙を流し、ピッチに倒れ込んでいた。
 貴史は、高校の時とはちがい、涙を流すことはなかった。不思議に悲しくはなかった。思うような結果は出なかったけれど、悔いはなかった。結果だけで、自分の人生を判断したくなかった。やるだけのことはやった、それを自分は評価したいと思った。
 小雨の降り続く中、貴史は大きく深呼吸をした。芝生の青臭い匂いが、冷たい空気とともに、肺の中に入りこんで、心地よかった。
 選手たちが退場するとき、前方のスタンドには、母校の小さな旗を振る姿が、貴史の視界にまばらに入ってきた。健闘をたたえる拍手の中、誰かが自分を呼んだような気がした。
 ふとスタンドを見上げ、声の主を探してみたが、誰もいなかった。
「小西君!」
 今度は、はっきりと聴こえていた。その声の方角を見たとき、嘘かと思った。貴史を見て手を振っているのは、留美にちがいなかった。
 貴史は立ち止まり、後ろから歩いて来る選手とぶつかっていた。それでも、その場から動かずにいた。やっとの思いで、貴史が右手を挙げると、留美は、涙でくずれそうな顔を必死でこらえ、笑顔でこたえてみせた。