庭仕事の愉しみ(春)



  春の気配
                              
  
 朝、庭に出てみると、雪はほとんど消え、薄汚れた雪が、塀の片隅にわずかに残っていた。苔の匂いがかすかにした。小さかった頃、湿った土の匂いを嗅ぐことで、春の訪れを感じていたことを思いだす。
  庭のひと隅に植えた山茶花が、五メートルほどに育っている。冬が来る前に咲いていた山茶花だが、いつの頃からか早春に咲くようになった。
 木一面を覆い尽くすように咲いていた赤い花びらが、落ち葉のように、幾重にも苔の上に積もっていた。
 山茶花は、花の少ない冬に咲き、丈夫であることから、多くの家に植えられている。
 だが、実際どれだけの人が、その花を愛でているのだろうか。「ああ、咲いたか」と気づく程度で、近くによって匂いを嗅いだり、花びらに触れる人はどれだけいるだろう。
 日々の生活で忙しいからというのなら、そういう人にこそ、花に触れて愉しんでほしい。
 苔を覆っていた山茶花の花びらを、竹箒や熊手で掃除すると、茶色がかった苔の上からは、早くも新緑の雑草が伸びていた。
 そういえば、ある園芸業者からこんな話を聞いたことがある。最近は家の普請をする際に造園を依頼されると、出来るだけ草むしりをしなくていいように、手間のかからない樹木を植えてほしいと頼まれることが多いという。
 だが、そういう人は、庭を造らずに、休みの日にホームセンターの園芸コーナーにでも行ったらいいだろう。 手入れもせず、草むしりもせずに、花や樹木を簡単に愉しめるのだから。親が、苦労もせずに優秀に育っていく子供を見ても面白くないのと同じで、手入れをせずに眺められる庭、これほど楽で、つまらない庭はない。

  カタクリ
                           

 庭に植えてある大きな株立ちのミズナラの根元に、どの山野草よりも一足先に、カタクの葉が幾枚も顔を出していた。
 実家の山林からカタクリを取って植えたものだ。毎年うすい桃紫色の花を、やや恥ずかしそうに下を向いて咲かせる、清楚な花である。
 カタクリは、種から発芽してから花が咲くまで七年かかる。他の山野草が葉を広げる前の、早春のわずか一か月しか、地上に姿を現していないからだ。
 下向きに咲くのには、わけがある。受粉をギフチョウに託すからだ。カタクリの開花に合わせるように、春先に羽化するギフチョウは地面すれすれに飛んでいる。 だから、ギフチョウに気づいてもらうように、下を向く。それを人が見ると、控えめでおしとやかで、可憐に見えてくる。
 そのカタクリの花だが、庭で見てみると、山で出会うような感動はない。それは例えると、美しい姿と鳴き声で有名なオオルリを、カスミ網で捕らえたあと、鳥籠に閉じ込めて
 鳴き声をふたたび聞いた時のような、あるいは、旅先で出会った忘れられない女性と再会を果たしたときのような、そんな感覚かもしれない。
 そのとき、その場でしか、捕らえることのできない感覚というものがある。オオルリも旅の女性も、何も変わっていはいない。
 ただ、それを受け止める自分のこころの状態が、変化している。こころというものは、すでに約束されてあるものよりも、偶然に出会ったものに、より強くかれるものかもしれない。
 そんなことはない、たとえば、感動した映画は何度見ても感動するものだ、という意見もあるかもしれない。だが、同じような感動でも、当時の感動を反芻しているだけで、こころが震える瞬間というのは、やはり最初に出会ったときにしかないように思う。
 山は、毎年おなじ季節に、おなじ場所を尋ねても、表情はいつも違って見える。
 だから、何かわくわくするような、新鮮な気持ちで行くことができる。だからこそ、同じカタクリの花毎年見ても、感動するのだと思う。
   
  マンサク
                            

 半日で仕事を終え、家に帰って部屋の中にいると、何となくそわそわして落ち着かなかった。庭に出て外の空気を吸って、その理由が分かったような気がした。
 春という季節は、生き物を活発に動かそうとする力があるらしい。
 普段の生活はというと、四季を感じない管理された室内の生活であるのに、数万年前から引き継いだ体の遺伝子というのは、やはり四季の移ろいを感じるのだろうか。
  今日はマンサクの株の一本を切り倒した。マンサクの花が好きである。何しろ、自分のメールアドレスに使用するくらいである。黄色く縮れた小さなリボンを、赤い糸で枝に結び付けたように咲いている。山を歩いている時、この花を偶然見つけたときの感動が忘れられない。
 十年前に植えたときは、ひ弱な三本の株立ちだった。以来、力が付いてくると、何度も地面から新しい芽を出してきた。黙っていれば大きな株を持った木に成長するのだろうが、限られたスペースの庭では、自由に成長させるわけにはいかなくなる。
 今回切り倒したのには、もう一つわけがある。毎年剪定するうちに、幹の姿がいびつになるとともに、花の付きも悪くなっていた。
 毎年あたらしい株が育とうとしているのに、ことごとく切ってしまって、いつまでも古い株を残そうというのはよくない。
  いつまでもトップに君臨し続けようとする古株の人間がいると、若手が伸びて花を咲かせないのと同じである。
 切り倒した幹を、薪ストーブ用に切断していると、甘い香りが鼻をついてきた。今まで気づかないでいたが、花と同じ香りだった。カツラの枯れ葉を思わせるような、ほんのりとした甘さだった。