勇気

 休憩時間にトイレに行こうとして、真美が廊下を歩いていると、優里が近づいてきた。真美は顔を背け、早歩きで通り過ぎようとした。
 ふたりがすれ違うとき、優里はすっと真美に寄り添うようにして、体をぶつけてきた。そのとき、真美の耳元に向かって、他の誰にも聞こえないように、優里が鋭い声でつぶやいた・・・「バカ、死ねば」。
 靴を隠したり、足蹴りを加えたりとか、誰かに見られて証拠が残るようなことは、優里は決してしなかった。いつも、言葉で攻撃してきた。
 (ブス)(不潔)(アホ)・・・けれど、真美はブスでもないし、不潔でもないし、頭も悪くはなかった。耳元に囁かれる言葉は、実際の自分とは全く関係のない言葉ばかりだった。
 真美に対するいじめは、もう一ヶ月以上続いていた。クラスの友だちに二三度相談したことがあった。すると決まって「そんなの、無視すれば?」と言われたが、優里の仕返しを怖がってか、面と向かって援護してくれる友だちは、ひとりもいなかった。
 毎夜、眠れない日が真美には続いていた。ベッドに潜り込み、眼をつぶってしばらくすると、そのうち胃がきりきりと痛み重苦しい痛みが背中まで広がり、体を動かすことができなくなった。
 両親や担任には、打ち明けていなかった。両親や担任に、自分がいじめられるような人間だと知られるのが嫌だったし、そういう自分を認めるのも嫌だった。
 友だちの言うように無視し続けて、いずれ止んでくれることを願っていた。だが、先の見えない不確かな解決方法では、言葉の暴力は、一向に止む気配がなかった。
 日曜日の午後、真美は本屋に立ち寄った。そこで、いじめに関する本が集まったコーナーに眼が止まった。並べられた本を、一通り眼で追っていた。
 その題名のどれもが、ありきたりな勇気づける言葉ばかりで、真美のこころに飛び込んでくるような本はなかった。それでも、ある一冊を手にとってパラパラとめくってみた。
 すると、「死ぬほどの勇気があれば、何でも出来るはずだ」と、あるタレントの言葉が真美の眼に飛び込んできた。
(そうじゃない。死ぬのに勇気なんて必要ない。立ち向かっていく勇気がないから、仕方なくて死ぬんじゃないの)
真美は、心の中でそう反論した。
 いじめに対して、勇気を鼓舞したり、慰めたりしようとする本は、うんざりだった。そんなに簡単に、勇気と言ってほしくなかった。そう思いながら、真美は深いため息をついて、いつものように小説の文庫本が並んだコーナーへと向かった。
 その夜、机に座りながら、真美はぼんやりと考えていた。
(なぜ、自分はいじめられるようになったのだろう?)
 中一の終わりごろ、教室で真美が友だちとふざけて遊んでいたときだった。友だちに押されてバランスを崩し、隣に座っていた優里にぶつかったことがあった。真美は、ちょっと振り向きざまに「ごめん」と言って、ふたたび会話に戻っていった。
 チャイムが鳴って、それぞれの席に戻ろうとしたとき、真美がふと優里の顔を見たとき、優里は上目遣いで睨んでいた。その眼に真美は動揺し、ひるんだ。だが、あらためて詫びることもないと思い、そのまま逃げるようにして席へ戻った。
 (あのときが、始まりだったんだ。優里の鋭い視線は、怯えたようなわたしの視線を感じ取って、その瞬間から、いじめの標的にされたんだ)
 勇気をもって立ち向かうこと、それがいじめに対する唯一の解決策であることは、真美にも十分わかっていた。
(自分には、勇気はないの?・・・そうじゃない、勇気は誰にだってあるはず、だったら、どうしたら勇気を引き出すことができるの?)
ひとりになると、勇気がふつふつと湧いてくるのに、現実の場面では、何も行動に移せない自分が、真美は情けなかった。 
 その日は、思いがけなくやってきた。いつものように、真美が廊下を歩いていると、優里が目ざとく見つけた。唇を横にひらいて、薄ら笑いを浮かべながら、擦り寄るようにして真美に近づいてきた。  
 真美の耳元に向かって口をひらこうとした時、真美はとっさに肘を曲げ、優里を押しやった。自らそうしよう、と思っていたのではなかった。体が勝手に反応していた。
 いきなり脇腹に肘鉄を食らった形になった優里が、眉間にしわを寄せて睨んだ。すると、真美の眼は、逆に大きく見開いていた。追い詰められた真美の必死の眼は、挑発してきた優里の眼を捉えたまま離れなかった。
 優里はその眼に一瞬ひるんだが、すぐに薄笑いの顔に戻って、いつもの言葉を吐こうとしたとき、わずかに早く、真美の口が開いていた。
「ふざけんな・・・」
その声は小さかったが、優里に聞こえるには十分だった。思いもかけないその声に、一瞬、(はっ?)と驚いたような表情をした。真美はこのときはじめて、(勇気)という言葉が、脳裏をよぎった。
 気づくと、真美は両手で優里の胸を、思いっきり押していた。気づくと、優里は廊下に両手をついたまま尻餅をついていた。上から優里を見下ろしたまま、真美は、今度は大声で叫んだ。
「ふざけんな、このやろう!」
その声は、廊下中に響き渡った。周囲にいた生徒の視線は、その声の主を探し当てると、ふたりの姿に釘づけにされていた。
 優里は、慌てて立ち上がり、周囲の視線を感じると、そのまま逃げ出すように、走りだした。
 立ちすくんだままの真美に、クラスメートのひとりが近づいてきた。
「だいじょうぶ?」
 見ると、真美は頬を紅潮させ、両手をつよく握りしめたまま、何も言わずに立ち尽くしていた。