山百合

 蝉がうるさく鳴いていた。雄介は一旦立ち止まり、額に滲んだ汗を手でぬぐってから、先へと視線を移した。車一台がやっと通れるほどの緩かな上り坂が続き、両脇には軒を連ねるように民家が並んでいた。やがて雄介は、坂に向かってゆっくりと歩を進めていった。 
 格子戸を開けると、カラカラという音が、人気のない玄関に響きわたった。
 中に入ると、採光窓のない玄関は暗く湿っていて、古くなった木の匂いが、雄介の鼻をついてきた。おとないを告げぬまま居間へ入ると、老女がひとりで背中を向けたまま、テレビの前に座っていた。      
「ただいま・・・」                      
 その声で、ようやく人の気配に気づいた老女は、後ろをゆっくりとふり返ると、眼を少し丸くしてから、口をひらいた。                            
 雄介は、挨拶もろくにせずに奥の部屋へと向かい、持参した手土産を仏壇のそばへ置いて正座した。仏壇に手を合わせるのは、三年ぶりだった。中央には、五年前に死んだ父親の写真が、ぎこちなく笑っていた。脇に置いてある花瓶には、浮かび上がるようにして、真っ白な山百合が、むせ返るような匂いを放っていた。                              
居間には、囲炉裏があった。雄介が小さいころ、盆や正月になると、親戚中が集まってきた。大人たちは囲炉裏を取り囲んで酒をくみ交わし、子供たちはその隙間からこっそり手を伸ばして、ご馳走をつまんだりしていた。                            
母親が独りで住むようになってからは、囲炉裏が使われることは、ほとんどなくなっていた。燃え残った炭は、灰に半分ほど埋もれたままで、その灰も湿って黒ずみ、火箸は使われることなく、赤く錆びたまま囲炉裏の隅に突き刺さっていた。                  
居間に戻ると、母親はテレビを消して、お茶を入れるところだった。雄介が胡坐をかくと、ポットのお湯を急須に入れていた母親は、視線を急須に置いたまま、東京での生活をさり気なく聞いてきた。
 雄介はいつもの通り、はぐらかすような生返事で答えるだけだったが、母親は笑みを浮かべながら相槌を打っていた。     
 雄介は、一人息子だった。東京の大学に進学してからは、そのまま都会に住みつき、ある出版社に勤めていたが、四十を手前にしてまだ独身だった。        とぎれとぎれに親子の会話が続いたが、乏しい会話が一通り済んでしまうと、囲炉裏のある部屋はしずかになった。
 古い扇風機がうなり声をあげながら、首を左右に振り、生ぬるい風が部屋に流れていた。雄介が、仏壇に活けられた山百合はどうしたのかと聞いた。      
「あれかい、近所の人からもらって庭に植えておいたのが、今年になって大きな花を咲かせてね」そう言って、さらに続けた。                     「山百合の匂いはきつくて嫌だっていう人もいるけど、母さんは好きだよ。この家は古くて風通しがいいから、山にいるときと同じで、風向きしだいでどの部屋にいても、百合の匂い
がほんのりと漂ってくるんだよ」   
「そうですか」                        
あまり関心なさそうに、雄介が答えた。         
「そういえば、あんたがまだ小学校の三年か四年のころだったと思うけど、母さんに山百合を採ってきてくれたっけね」                          
雄介は、思い出したように、小さく二三度うなずいた。
「たしか、あんたが川へ遊びに行った帰り、山の斜面に咲いていたのを、よじ登って採っ
てくれたと思ったけど」                             
「憶えてないな」                      
「そのとき、あんたのお気に入りのTシャツに、黄色い花粉がベッタリついてしまって、洗濯をしても消えなくてね。それであんた、山百合は嫌いだって言ったんだよ」                               母親はそう言って、湯呑茶碗に視線を落とすと、残ったお茶を揺らしてから口に含んだ。             会話がふたたび途切れた後、母親はここ二三年で近所や親戚で起こった出来事を、こまごまと話し始めた。その間に、母親は肩を叩いたりするしぐさを繰り返していた。                         「肩でも揉んでやろうか」                 
 それを見ていた雄介は立ち上がって、母親の後ろに回って膝をついた。母親の背中は、小さくなって痩せていた。両手を肩にかけてみると、浮き出た肩の骨が指に触れ、揉んでやるほどの肉は、ほとんど付いていなかった。                            
雄介は、萎えた肩の肉をさすってやった。母親は下を向いたまま、何も言わずに黙っていた。肩をさすりながら、すこしたったころだった。             
「おれ、もしかしたら東京の仕事辞めて、こっちに戻ってくるかも」                         
それを聞いた母親は、ゆっくりと首を上げ、前を向いたまま口をひらいた。                   「仕事で何かあったんかね」              
「関係ないよ」                      
「だったら、どうしたっていうんだい」           
「だからさ、こっちに帰ってこようかなって、ただそれだけだって」                          
むきになって答える雄介に、母親はそれ以上何も聞かなかった。                          
「もういいよ、ありがとう」                 
 母親がそういうと、雄介は母の背中を軽くたたいてから離れた。そして、元の場所に座ると、囲炉裏に視線をとめて、独りごとのようにつぶやいた。       
「今度来たとき、久しぶりに火でも入れてみるか」    
その声は、壊れかけた扇風機のうなり声にかき消されて、母親には聞こえていないようだった。雄介は、年老いてきた母親の顔を覗き込んでから、ふたたび囲炉裏に視線を戻した。