庭仕事の愉しみ(夏)



   薬剤散布
                               

 ブナに薬剤散布した。散布は、年に2,3回行うが、春一番に行うのが硫黄合剤である。ブナを街で育てると、縮葉病に罹りやすい。これは、アブラムシの仲間が新葉に寄生して、成長期の葉の汁を吸うため、葉っぱが伸び切らずに縮んでしまう病気である。
 これを防ぐには、葉が開く前に硫黄を新芽に吹きかけておく。梅雨が終えるとイラガなどの毛虫の発生に合わせ散布をし、秋になって雨が続くと、葉の裏に白い綿上のアブラムシが発生したりする。
 庭で樹木を育てるには、薬を定期的に散布し、落ち葉をきれいに掃いて溜めないようにしておく必要がある。
 自然の世界では必要のないことだが、街中では人工的に管理しなくてはならない。樹木の生育に不適切な環境に植えておいて、あとは自然に育つことをしても無理というものである。
 子どもを何の管理もせず、自然にのびのびと育てたいという親がいる。いったいどこに、子どもをのびのびと育てられるような環境が、この現代社会にあるというのだろうか。
 自然に育てることと、放置することとは、全く別である。いったん人間の手が加わった崩れた環境では、本来の自然の力は既に失われている。
 今の世に、樹木のみならず、子どもが自然にあるべき姿に育つことを期待しても無理である。現代の子供たちにも、剪定や薬剤散布や落ち葉掃きは、仕方ないが必要な作業である。


   雪椿

                              

 庭に雪椿が咲いている。十年前に、実家の山林から採ってきたものだ。二十センチほどの高さだった。丁寧に根を掘り上げたつもりだったが、細根がほとんどついていなかったので、葉っぱを二枚ほど残して植えておいた。
 根が弱っているのに、葉っぱをよけいに残しておいては、枯れてしまう。植物を育てていると、目に見えるものは、それ以上に、目に見えないものの力で支えられている、ということを教えられる。
  雪椿は、八年間、日陰に放置されたままになっていたから、なかなか成長できずにいたが、昨年になって、陽のあたる場所に移動させた。掘り返してみると、地上に見える葉ぱに比べ、根っこの部分はたくましく成長していた。
 そして今年、花を咲かせた。明るい紅色だった。椿の中では、なんてことはない、ごく普の色である。五千種類もの改良種がある中で、もっともありふれた色かもしれない。
 椿愛好家は、より美しい、より珍しい花を求めて、あらゆる努力をしているのだろう。   
 だが、本当に椿の花を愛でるものは、改良せずに、そのままの椿の色を愉しむのだろうと思う。椿の花は赤い、ただそれだけで十分だと思えるようになりたい。
 椿は、日本人好みの花だと思う。例えてみれば、バラの花を、華やかなドレスで着飾ったヨーロッパの貴婦人だとすれば、椿は、着物で身を包んだ大和撫子と言うべきものかもしれない。
 バラは、美しさをいかんなく発揮し、その魅力をすべて外に向けてさらけ出しているのに対し、椿は、本当の美しさを内側に秘め、隠しているような奥ゆかしさがある。
 椿は、花びらが一枚一枚、色褪せて離れていくのではなく、花ごとそのまま、ごそっと地上に落ちる。
 地面に敷き詰められた椿の花は、さまざまな相を見せる。最初は鮮烈な赤い花びらだが、やがては色褪せ、茶色に縮みあがり、雨によって溶け出し、地面に同化していく。
 椿は、桜のように大量に植えて、大勢で愉しむのではなく、たった一本の木を、独り愉しむのにふさわしい花だと思う。

   ウワミズザクラ
                         

 医院の庭にある木を、一本を伐採した。山に行けば、どこにでもある木だが、ヤマザクラの花が散ったあとに咲き、しかも、小さな白い花を房状に地味に咲かせるため、気づかれることがあまりない。
 その後には、小さな赤い実が房状に残り、これをアルコールで漬けると、きれいな赤い酒ができる。
 医院に植えたウワミズザクラは、結局一度も花を咲かせることなく、生涯を終えてしまった。狭い医院の庭に、密生された樹木の中で、いつも他の樹木に圧倒されながら生きていた。だから、体力もつかず、毎年くり返しアブラムシの攻勢に遭った。
 健康な樹木は、病気を寄せ付けない。これは、当たり前のことだが、重要なことである。人間にいいかえれば、心身ともに健康であれば、悪い病気だけでなく、悪い人間も寄りつかないということでもあると思う。
 今年になって、この木は枝から葉を出す体力がないため、胴吹きといって、幹から直接葉を出していた。その方が、エネルギーを節約できるからである。
 だが、体力を失った木を見定めたアブラムシが、再三繁殖した。薬剤散布を繰り返しても、根絶できなかった。弱った体には、薬も効きにくいということは、医療でも同じことかもしれない。
 この木を植えた時には、親指ほどの太さだったが、伐採するときには、脛の太さにまで成長していた。懸命に生きようとしたが、花を咲かせることなく、生涯を終えたこの木は、
 自らの人生を振り返って、何と言うだろう。(おれの人生は、人間のせいで台無しになってしまった、畜生!)とでも恨むだろうか。
 それとも、(これも人生、自分なりに精いっぱい生きた、悔いはない)と言ってくれるだろう
か。