庭仕事の愉しみ(秋) 




  油蝉
                                 

 炎天下が続いている。自宅の庭では、アブラ蝉の声がけたたましくなっている。朝から
晩まで、アブラ蝉の鳴き声が響き渡る音色は単調で気が滅入る。実家の田舎では、朝はミンミン蝉、昼はアブラ蝉、そして夕方はヒグラシと、時の流れを感じられた。
 アブラ蝉は、五年の地中生活を経て、成虫になるらしい。蝉の一生は、空蝉(うつせみ)といって、はかない象徴のようにいわれる。
 でも、本当にそうか、と思う。はかないというのは、長い地中生活の末に、やっと地上に出たと思ったのも束の間、二週間ほど懸命に鳴き続けて死ぬからだろう。その屍が樹木の下に転がっているのを見ると、無常観に捕らわれるのも、なるほど、という気もする。
 しかし、である。多くの昆虫は、カブトムシのように、産卵から死ぬまでわずか一年である。それに比べ、蝉は6年生きている。
 長い地中生活を終え、ようやく陽の光を浴びたか思いきや、わずか二週間で命を終えてしまう、その部分だけを切り取って、人間は蝉の
 人生を、勝手に哀しい物語に変えてしまっている。そもそも、地中の生活が暗くてつらいとしていることに、誤りがあるように思う。
 わたしたち人間も、広い社会に飛び出した自由な大人の世界よりも、さまざまな制約がありながらも、小さな世界で生きていた子供の時代のほうが、はるかに楽しかったと思うのは、わたしだけではないだろう。
 光がなければ、不幸なのだろうか。人間に例えれば、長生きすれば幸せか、お金があれば幸せか、という問いに近いような気もする。
 ひとつのもので満たされなくとも、他のもので満たされていることはいくらでもあるはずなのに。

   オリーブ
                           

 台所の窓際にそって、オリーブを三本植えてある。枝には、厚くて艶のある紡錘形の葉っぱが、ぱらぱらとまばらに付いている。風が軽く吹いているせいか、気持ちよさそうに、単調な揺れを繰り返している。
 よく見ると、小枝はあちらこちらに好き放題に伸びていて、全体としてまとまりがなく、幹の進む道がまだ決まっていない。人間で言えば、まだ思春期のようである。
 料理の合間に、青かびチーズをかじりながらワインを飲み、窓から見えるオリーブを眺めていたときだった。小さな黒い影が視界に飛び込んだかと思うと、オリーブの細い枝の先に留まった。
 見ると、まだ若いスズメで、くちばしの根元がまだ少し黄色に染まっていた。そのくちばしには、青虫を咥えていた。オリーブの葉に潜んでいたアゲハの幼虫だった。ほんの一瞬、お互いの眼が合うと、あっという間に飛び去っていった。
 若いスズメが飛び去った後の枝を見ると、葉っぱが食い散らかされていた。アゲハの幼虫は大発生することはないが、大食漢であっという間に葉を喰いつくし、枝を丸坊主にしてしまう。
 雪国では生育しにくい、このか弱いオリーブを気にかけているのは、この世で自分だけである。
 なんとか成長しているか、虫は付いていないか、そう思って見守っているのは、この世自分ひとりである。それが、若いスズメがわたしの見ている目の前で、害虫を取り除いてくれた。
 「そうか、おまえもいたのか」と心の中でつぶやき、思わず頬がゆるんだ。そんなひ弱なオリーブだが、最近になって、枝がはびこり、通路を妨げ始め、窓にくっつく枝も出てきた。邪魔になるくらいに、枝を伸ばしてきたのである。
 それは、何もできなかった子供が、ようやく一人で生きる力がついていて、親に反抗し始めたようなもので、喜ぶべきことである。
 残ったワインを飲み干すと、勝手口から外へ出た。「こんなに伸びてしまって、困ったもんだ」と言いながら、内心はうれしく、そして慎重に、枝の位置を選んで剪定した。


   雑草
                               

 空を見上げると、雲の位置が高くなっていて、秋の気配を感じさせる。久しぶりに雨が降り、二、三日して庭に出てみると、爪草などの雑草が、元気よく芽を伸ばしていた。
 畑で野菜を作っている人は、良く知っている。雑草だけは、何も手を加えなくとも、一年を通して旺盛に育つことを。
 野菜は、人工的な植物である。種を播けば、ある日いっせいに芽を出し、条件がそろえさえすれば、同じように育つ。しかし、自然界にあっては、自らの力では育つことはできない。
 人間が常に手を加える必要があるし、それでも自然の歯車が狂ってしまえば、全くの不作に陥る可能性もある。
 雑草は違う。いっせいに芽を出すことはなく、一年を通して、だらだらと芽を出す。その方が、さまざまな気象変化に対応でき、種の保存に役立つからだ。
 人生の種も同様だ。雑草のように、だらだらと芽を出そう。きめられた時期にいっせいに芽を出し、きめられた時期にいっせいに育ち、きめられた時期に実を結ぶ必要はない。
 誰にでも、どんな時でも芽を出すチャンスはあるし、ここぞと思ったときに芽を出し、水や肥料を人の手に頼ることなく、自らの力で育ち、小さくてもいいから花を咲かせ、実を結ば
ることはできるはずだ。