庭仕事の愉しみ(冬)  



 落ち葉掃き
                   

 ぶらぶらと庭を歩いていたら、花が咲いていた。炉開きという名の木である。サザンカの木とお茶の木が偶然に掛け合わされてできたものである。
 お茶の花を大きくしたような花で、小さくて淡いピンク色の花びらに、やや大きめの黄色いおしべが付いている。
 この木は、サザンカの血をひいているから、椿の仲間では最初に咲く花である。そして何より、炉開きという名前がいい。冬に近づいてきて、外は冷え込み、家に火が欲しくなったころに咲くから、炉開き・・・この名前を付けた人に敬意を表したい。
 今日は落ち葉掃きをした。長い竹箒を使って、落ち葉を集めていくのは、愉しい作業である。箒で掃いている間は、落ち葉だけを見て、手や足を動かし、余計なことに思い悩む必
 要がない。知らず、日常から離れている。ヘッセは、庭仕事を唯一の愉しみとしていたらしいが、神経症に悩んでいた彼にとっては、庭仕事は何よりの治療だったのだろう。
 庭仕事の一番の効用は、頭の中に一つの考えを溜めこまないことだろう。手を動かしながら、樹木のことを考える。知らないうちに、日常のわずらわしさから離れている。
 落ち葉掃きをして、地面は竹箒の跡が残っていた。それを見ていたら、谷内六郎という画家の「掃き目もよう」という絵を思い出した。女の子が竹箒で落ち葉を掃き、その傍らで男の子がしゃがんで焚火をしている絵である。
 京都の名刹にある、きれいに規則正しく掃き清められた模様を見ると、無駄のない線に身が引き締まる思いがするが、何の意味もなく、デタラメにできた掃き目模様も、なかなかいいものである。
 美しく見せようと思うわけでなく、何の作為もなくできた模様は、見ていて心が落ち着く。
 いくら有名な絵であっても、作者の意図があからさまに見えてしまった絵ほどつまらないものはない。美しく描こうとしてできた絵ではなく、無我夢中で絵の対象に向かっていって、 作者の説明がいっさいない絵に心惹かれる。

   冬囲い
            

 かなり早かったが、庭木の冬囲いをした。雪の降る前に花の季節を迎える山茶花や椿などは、残すことにした。グルグル巻きにしばりつけられた庭木から、花が苦しそうに咲いているのを眺めるのは、じつに興ざめである。
 過去の苦い経験をいかして、念入りに行った。今まで自己流でやっていたが、春先になってみると、何本もの幹が無残にへし折られ、凍みて重くなった雪の力を甘く見ていた。ていた。
 考えてみると、冬囲いの作業をしている時が、一番木に触れあっていることに気づく。病気が付いていないか、込み合っている枝はないか丹念に見るのだが、枝が折れた姿の悪いものや、生育の悪いものには、「お前もいろいろと大へんだなあ」などと話しかけてみる。
 もちろん答えは返ってこないが、じつは自分自身に語りかけていたりすることが多い。
 冬囲いの途中、草むらの影から、ジジッ、ジジッ、とかすかに虫の鳴き声が聞こえてきた。その姿を求めて草を分け入ると、中から年老いたオスのコオロギがよろよろと這い出てきた。
 虫たちの姿がすっかり絶えたこの晩秋に、まだ一匹だけ取り残されて、メスを求めてむなしく羽を震わせている姿は、物哀しいが、同時に風流でもある。
 秋の盛りに聞く虫の声を風流だという考えもあるかもしれない。だが、初冬に聞く虫の鳴き声のように、時は流れを否応なしに感じさせる、季節外れに聴く虫の声の物哀しさこそ、風流と呼びたい気がする。
 ほぼ一日かけて、冬囲いを終えた。不思議なもので、棒に括りつけられた樹木が、あちこちに建っている姿は、明らかに不自然なのだが、それを見ていて気持ちがよかった。
 それは、もうどんな雪がやってきても大丈夫だという安心感と、樹木が感謝しているわけではないけれど、十分なことをしてやったという自己満足なのかもしれない。

    焚火
                 

  ここ数日、落ち葉の量が激しい。掃いては溜まり、掃いては溜まっている。樹木たちは、わずか半年の間に、これほど膨大な量の葉に投資していたのかと思うと、改めて驚かされる。
 葉っぱには、重要な役目がある。まず、自らの体の維持に必要な養分を回収し、次に成長に必要な養分をつくりださなければならない。
 樹木は、葉に対して、予定よりもかなり多く投資しなければならない。投資した葉が、すべて同じだけの働きをしてくれるとは限らないからだ。ほかの木の陰になったり、日照りが続いて蒸散を防ぐため自ら葉を落としたり、虫や病気に侵されたり、あるいは暴風枝を何本も失うかもしれないからだ。
 樹木は、自分が努力した分だけ、自分に見返りがあるとは、思っていないはずだ。むしろ、思い通りにならないことばかりが多く、マイナスになって還ってくることもままある。それ
 でも、自暴自棄になることもなく、同じような生活を繰り返して生きていく。
 午後になってから、落ち葉を集めて焼いた。焚火が好きな人は多い。焚火の魅力を言葉で伝えることはむずかしいが、見ているあいだは、余計なことは考えないで済むし、なぜか癒される。
 焚火の火をながめることは、空に浮かぶ雲を眺めことや、川の流れを眺めたりするのとているような気がする。まるで人間の営みを瞬時に表現しているように、予想もつかない姿や色に変化して、最後にはかならず消えていく。
 黙して語らず、というということがある。親が自分に向かって説教するのはうっとうしくとも、何も言わない親の背中を見ることで、自分の過ちを素直に反省することがある。
 二宮尊徳氏はこう言っている。「声もなく、香もなく、つねに天地は、書かざる経をくりかえしつつ」と・・・読経することもなく、線香を立てることもないが、自然は自らの姿をさらけだすことで、お釈迦様の教えを諭してくれている。