森のお医者さん


             今村 均



          
               


   新発田中学出身である。太平洋戦争において、ラバウル

    方面軍司令官としてラバウルを死守した今村陸軍大将は、

    敗戦と同時に日本に送り返されて巣鴨に拘置されたが、

    昭和25年、自ら志願して部下たちの服役しているニュー

    ギニア島のマヌス島に移った。

    彼は、そのときこのように言った。「戦勝の時、功一級を与

    えられる地位のものが、敗戦を招いた場合、罰一級をこう

    むることを避けようとするのは、許すべからず厚顔無恥と言

    わなければならぬ」と。ときに、今村は64歳だった。

    5年後、釈放された後、自宅の一隅に巣鴨と同じ三畳の掘立

    小屋を作り、回想記の執筆と戦没あるいは処刑された旧部下

    たちの遺族を弔問して余生を送った。回想記を出版したのも、

    その印税で遺族を助けようとしての念願からであった。

    GHQ司令官のマッカーサーは、彼のことを「日本に来て初め

    て真の武士道に触れた思いだった」と述べており、漫画家水木

    しげるがラバウルに居たさいに、今村から声をかけられたこと

    があり、「今まで会った中で、一番暖かさを感じる人だった」と

    回想している。