森のお医者さん

       

     山をあるく(2)



 第2回 鉈を使う

                          
 
 山に入るときには、鉈を身につける。鉈は雑木を刈り払ったり、枝打ちをしたりするのに必須であるが、護身用にもなる。滅多にないことだが、熊に遭遇する可能性もあり、鉈を身に着けていると、安心感もある。
 刃物というせいもあるが、鉈を身につけると、ちょうど侍が腰に刀を差したかのような気分になる。まあ、そこまでいかなくとも、山師になったようで、いくらか身が引き締まる感じがする。
 釣りに凝ると、いい竿が欲しくなるのと同じで、山の見回りを始めてみると、いい鉈が欲くなり、実力不相応な鉈を購入した。えせ山師なのだから、ホームセンターに売っている安いもので十分じゃないか、などと言われそうである。
 ただ、鉈は自分にとって、山に携わっているという、証のようなものでもある。山の仕事はろくにできないが、いい鉈を身につけることで、山に入るときの心意気を高めてくれそうな気がする。
 その代り、毎年山歩きが終わると、鉈の刃を丁寧に砥ぐことにしている。少し砥ぐたびに、刃を光にかざしてみたり、指の腹を刃の上に滑らせてみたりを繰り返す。ようやく、皮膚が切れそうな抵抗感を感じると、それを鞘に納める。
 修理するよりも新しいものに買い替える方が、安くて簡単に手に入る時代だが、それではものに対しての愛着は湧かなくなってしまう。
 愛着というのは、お金で買えるものではなく、時間をかけて自分で育てるものなのだから。ブランド品は、人に対して見栄を張るにはいいかもしれないが、愛着とは無関係である。
 もしあったとしても、ブランドに対する愛着かもしれないし、その気持ちが本物かどうかは、それが壊れて新品を買うのと同じお金がかかると言われた時、修理を選ぶかどうかである。

               

 雑木林に比べ、杉林はつまらないという人が多い。山菜やキノコを採ったり、野鳥を観察したりする人にとっては、動植物などの種類が、貧弱であるということが理由だろう。だが、人にとって都合のいい雑木林などは、杉林同様に人の手が行き届いている里山に近いところであって、人の手入れが行き届いていない雑木林などは、藪だらけでそう簡単に歩けたものではない。
 杉林というと、つい薄暗い印象を持ってしまうが、管理が行き届いて大木に育った杉林というのは、明るい山林である。低木の雑木がまばらに生え、山菜も意外に豊富で、さまざ まな野鳥が飛び交い、さえずりが山林に鳴り響いている。
 上を見渡せば、空がところどころに覗いて見え、高くそびえる杉の梢がゆっくりと風に揺れている。少しひんやりとした空間で、杉の香りが充満した空間を歩くのもいいものである。
 たまに、カモシカが杉林の中をゆっくりと歩いているのを見かけることがある。そんな杉林間違いなく良い山林である。なぜなら、杉林にカモシカの食糧があるということは、多様な植生を証明しており、すでに森として成立しているということになるのだから。
 逆に、悪い山林とは、野放し状態で、暗い山林ということになる。間伐もされていないので、空間は少なく、杉は細く痩せて密集している。そんな場所には、鳥も入り込もうとしない。

        
 
           
 6月に入り、山を遠目で見ると、杉林の中にきれいなうす紫色の花をところどころに発見する。フジの花である。だが、山林にフジの花が咲き誇っているのは、山林所有者としては失格だ。というのも、フジは杉林にとって、害木なのである。
 庭で花を愉しむだけなら、フジは棚にして育て、おとなしそうな樹木であるが、野生のフジは、凶暴だ。フジは、自分の力では上に向かって成長することはできない。他人ならぬ。  他木の力を借りて、ぐるぐるとらせん状に這い上がっていく。
 フジが十分太くなると、今度は巻き付いた樹木を、ニシキヘビのように締め付けていく。正確には、締め付けるのではなく、巻き付かれた樹木が太くなっていくため、食い込んでいくのだが、その姿は見ていて痛々しい。
 放置すると、いずれその樹木はフジに締め上げら、下に引っ張られ、倒れてしまうこともある。そこまでいかなくとも、材木としての価値はなくなってしまう。
 そんなフジを見つけると、敵を見つけたかのように、勇んで駆けつける。ちょうど大蛇が人するような気持ちである。
 腕くらいの太さならまだしも、太腿くらいのフジになると、鉈で断ち切るのは容易ではない。わたしのような、にわか山職人では、途中で鉈を握る手が効かなくなってしまう。いつだったか、手がしびれて打ち下ろした鉈が手から落ちてしまい、脛に当たりそうになったこともあった。
 いったん休憩して、フジが杉のてっぺんまで延び上がっているのを見上げる。(やはり、このままではいけない)と、再び奮起して鉈を振り下ろしはじめる。
 最後に残ったフジの皮がプツンと切れた瞬間、ちょうどバネが切れたように、切れた両端がバシッと音を立てて離れ、ようやく安堵する。
 ところが、すぐその近くに、さらに太いフジが杉の大木を巻いているのを見つけたりすると、もうそれは見なかったことにして、その場を離れることになる。なにしろ、にわか山職人なのだからしようがない。
 今の自分ができるのは、こんな程度である。山の管理で一番重要なのは、間伐といって、出来るだけ杉を太らせるために、若い杉を間引く作業なのだが、わたしはチェーンソーを使えない。もっとも、植林して80年以上たっている山林が多いので、その必要もほとんどないので助かっている。
 鉈を使って、山判を彫ることもある。これは、江戸時代から続いているもので、所有者が家門のように、オリジナルの印をもっていて、境界木にその印を鉈で傷つけておく。すると、その傷は何年経っても消えずに残ることになる。
 それ以外に、境界にサワラやカラマツなどのこの地方に自生していない樹木を植えたり、栗や桜など、たまたま境界に実生の苗が育っている場合、それを境界木にすることもある。
 山でのトラブルは、この境界の間違いによる伐採がほとんどであるから、山判は重要であったが、今では、この習慣も消滅している。山には市街地のようにフェンスや塀はなにもないが、必ず誰かの所有地になっている。
 山に入るとき、赤い文字で立ち入り禁止の看板などを見ると、少なからず興ざめするが、地元の人たちのことを考えればやむを得ない。
 山菜やキノコを採りに町から繰り出す人たちは、山に入るときには、人の土地に入らせてもらうということを心の片隅に置いてもらえば、マナーも育つだろうし、不必要で品のない看板を目にすることもなくなるのだろうが。