森のお医者さん

             

     運動会



 いとこからメールがきた。小学校の運動会の案内だった。いとことは同い年で、小学校の教員をしている。その小学校とは、わたしの母校でもあり、いとこの母親の母校でもあった。彼女は数年前から、その小学校に赴任していた。
 母校は、今年で創立百四十周年を迎えることになっていた。昭和二十年代、村は鉱山で賑わい、全校児童が四百名以上にまで膨れ上がっていたが、わたしが卒業する昭和四十年代には百六十名ほどに減少し、今ではが七人になっていた。
 わざわざメールを送ってれたのは、今年がこの小学校にとって、最後の運動会となるからだった。小学校は、来年閉校することが決まっていた。
 この日は、地区の住民百人ほどが観戦に来ていた。交番のお巡りさんも学校周囲の駐車場案内にボランティアで参加し、道具の準備や片付けは、地区の消防団が手伝っていた。手作り弁当ならず、手作り運動会といった感じだった。
 母校の運動会を観るのは、卒業以来だから、四十年ぶりだった。わたしの頃と同じように、紅白に分かれて争うのだが、その人数は四人対三人である。それでも、優勝旗や準優勝杯もある。
 人数が少ないため、紅白に分かれて応援するのではなく、七人ひとつになって、応援パォーマンスを披露することになっていた。それぞれが、楽器を持って演奏し、そのあと旗や扇子を持って応援パフォーマンスを披露した。
 (たった七人の応援か・・・)観はじめたとき、彼らを憐れんだ。
 だがまもなく、憐れんだ自分を恥じていた。かれらは恥ずかしがることなく、卑屈にもならず、どうどうと演技していた。テントの中では、教師たちが見守っていた。
 それは、部員が足りなくなって、何とか人をかき集めてでき上がった野球チームが、熱意ある指導者に鼓舞されながら、懸命にプレーしている姿を観るようだった。映画のワンシーンを観ているかのように、ひとりひとりの顔を、食い入るように見た。どの顔も、真剣だった。競技がはじまった。どの競技も児童だけはなく、地区住民と一緒になって行われていた。
 徒競走でさえもそうだった。ひとりひとりに、その父親や兄がついて、二人ずつのレースで行われた。スタート前には、ふたりのレースに対する思いが、スピーカーから流れていた。
 ある親は子どもを横目で確認しながら並走し、ある親は懸命に走っていい勝負をし、ある兄は数秒待ってから全力で弟を追いかけ、またある兄は途中で立ち止まって石を拾うパフォーマンスを演じてから小さな妹を追いかけていった。走った誰もが、住民の盛大な拍手を受け、ゴールに向かって駆け抜けていった。ひとりひとりが、レースの主役だった。
 住民だけのレースが半分ほどあり、どのレースにも児童たちの熱いエールが飛んできた。彼らは、こう応援していた。
「がんばれ、がんばれ、地域のみなさん!がんばれ、がんばれ、地域のみなさん!」
 自分たちのチームを応援するのであれば、自然と声に力が入るのだが、かれらにはどのレースも、応援する仲間がひとりもいなかった。全員が出場するか、全員が応援するしかなかった。メガホンを片手に声を張り上げて、地区の住民を応援する七人の声は、広すぎるグラウンドに、小さく響いていた。