森のお医者さん


         贈り物



 贈り物のことを、英語で「ギフト」というが、ギフトには、もう一つ意味がある。それは、才能である。ただし、才能という言葉の前には、天から与えられた、という前置きがついている。
 世の中には、ある分野に飛びぬけて恵まれた能力を持った人間が少なからずおり、われわれ凡人からすれば羨望の的となる。だが、天から与えられたということは、手放しで喜ぶことはできない。才能を恵んでもらったからには、何かしらの条件が付いているはずである。その条件とは、なんであろうか。
 ある有名なプロスポーツ選手が、自分のためだけに才能を費やしたらどうなるだろう。その才能はやがて肉体の衰えと共に朽ち果て、その世界から去る日がやってくる。
 引退してから、数多くのトロフィーを並べて眺めたり、過去の栄光を人に語ったところで、その後の人生を満足させることはできないだろう。やがて、その選手は人々から忘れられ、空しい人生を送ることは、想像に難くない。
  一方で、選手生活が終わったあとでも、名声が薄れることもなく、人々の記憶に長くとどり、この世を去ってからは伝説となっていくような選手もいる。そういう選手に共通しているものがある。それは、どんな記録を打ち立てたか、どれほど稼いだかというものではない。目に見えない大事なものを、わたしたちに与えてくれている、ということである。
 誘惑に負けず道を逸れずに生きていく心の強さ、困難にぶつかってもあきらめずに努力することの大切さ、困っている人々がいれば手を差し伸べるやさしさ、おおよそ人として生きていくことに必要なものを、彼らは自らのプレーや生き方を通して、わたしたちに伝えてくれている。  
 神様から特別な才能を恵んでもらう条件は、その恩恵を周囲の人々に対して、別な形で
与える義務がある、ということではないか。神から与えられた才能は、自分のためだけに使ってはいけない、ということだと思う。
 それでは、特別な才能に恵まれていない、わたしたち凡人はどうなるのか、ということになるが、何も溜息をつく必要はない。特殊な才能をもった人間ばかりでは、この世の中は成り立たない。この世の中を支えているのは、結局は凡人と呼ばれるわたしたちなのであるから。
 わたしたちは、程度の差こそあれ、ある才能を授けられて、この世に生を受ける。多くの人間は、その才能を自覚することはできないが、確実に言えることは、神様は人の役に立てるように、その人に見合ったある才能を与えるのだろうということである。 
 神様の法則というものがある。自然法則といってもいい。わたしたちの行為は、周囲の目には留まらなくとも、自分が忘れてしまおうと、決して消えることはなく、自らの魂に記録され、人生の最期には寸分のくるいもなく、帳尻が合うようになっている。その評価の大きな 柱のひとつが、私たち自身が自覚することのできない、神様の贈り物である才能という気がする。