森のお医者さん

                         ある映画の教え    



 最近、ネットでDVDを一枚購入した。1973年配給の「ブラザーサン・シスタームーン」という映画である。中学時代、映画にのめり込んでいた頃、映画雑誌に紹介されてはいたが、
 全国に配給されるほどの話題作でもなく、観る機会もなかった。そのタイトルを見つけた瞬間、驚きとともに、観てもいない映画になぜか懐かしさを感じた。そして、一枚の写真が記憶の隅からよみがえった。
 頭頂部をまるく剃り上げ、粗末な衣服を身にまとった修道士と、きれいな眼をした若い修道女が向かい合っていた。その写真は、毎月買っていた映画雑誌の一頁で、青と白の二色刷りだった気がする。
  十三世紀のイタリアの古都、アッシジが舞台である。のちに聖人と認定された聖フランチ
ェスコの若き日を描いた実話を元にしたもので、音楽好きなら、リストの(小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ)で知っている人もいるだろう。
 裕福な商人の息子であるフランチェスコが、戦争に行って帰ってくるなり病に臥す。懸命な看病の結果、健康な体を取り戻すが、両親は息子が別人になっていることに気づく。
 戦争に行く以前は、父親に助言するほど商才に長け、ハンサムでプレイボーイとして名を馳せていたフランチェスコだったが、帰ってみると、人や金よりも鳥や蝶や花などの自然に眼を向けるようになっていた。さらに、店で扱う高価な毛織物などを、父親に黙って街中の人に無償で分け与えるようになる。
  まもなくフランチェスコは、富と名声をすべて捨て、町外れの壊れかけた教会を自らの手で再建しはじめる。最初は町中の人間が馬鹿にしていたが、やがて街の有能な若者が、ひとり、またひとりと彼の姿勢に共感し、活動に加わっていく。だが、司教の陰謀によって教会は焼かれてしまう・・・。
 この映画を観ていて、はからずも涙した。そして、(外部に影響されないしあわせな心)と
いう言葉が思い浮かんだ。「努力した結果、夢や目標が達成されてはじめて、しあわせだと感じるのは、本当のしあわせではない」ある哲学者が言っていた。しあわせになれる材料は、求めなくとも、すでに自分の中に存在しているということだと思う。
 ある有名人が、しあわせを感じたいなら、その閾値を下げればいいと言っていた。たとえば、空腹を満たし、布団の上で寝ることができる。それだけでしあわせだと。食事が満足に取れず、寝る場所もなければどうなるか?さらに閾値を下げることになる。最後には、息ができればしあわせ、というところに行き着く。
 しかし、世の中には息がでずに機械で補助されながら生きている人もいる。つまり、閾値をいくら下げても、他と比較していているうちは、外部の影響を受けていることに変わりはない。
 先の映画の話に戻るのだが、フランチェスコにとっては、神のもとで働く喜び、言い換えれば、人のために生きているという心こそが、外部に影響されないしあわせな心という気がする。フランチェスコの善意は、人と比べられる必要もないし、誰も奪うこともできないものだ。ただ、世俗にまみれたわたしたちにとって、善意のみで生きていくことは難しい。フランチェスコの心の中にあるもので、もっと身近なものはないだろうかと考えてみた。
 たとえば、(受け入れる心)と(手放す心)、このふたつがあったらどうだろう。このふたつの心も、外部に影響されない心、といってもいいのではないだろうか。
 受け入れがたい現実を受け入れたり、手放したくないものを手放したりすることで、それ以上に価値のあるものが、心の中に宿していることに気づくはずである。
 フランチェスコの善意の心と同様、自分の心の中にあるのだから、もう誰も奪うことのできない宝物である。それを、魂の成長といってもいい。