森のお医者さん

                        ある写真家の人生



 アメリカに、ジョー・オダネルという写真家がいた。彼は太平洋戦争に従軍し、終戦後、長崎に落とした原爆の効果を記録にとどめるようにと、軍から命令を受けた。その際、一切人物を写さないようにという条件が付いていた。 人間が写ってしまえば、悲惨な状況が映像として残ってしまい、後で原爆を落としたことを、アメリカが非難されることを恐れたのかもしれない。
 ジョーは、その命令を忠実に守り、人気のない焼け野原に向けて、シャッターを押し続けた。ところが、彼は軍の命令に背いて、三十枚ほどの原爆被災者を写していた。それらの写真は、秘かにカバンの奥に押し込まれた。ジョーは軍を離れた後、原爆の記録写真の質の高さを認められ、トルーマン大統領付きのカメラマンに採用された。
 被爆者の写った三十枚の写真は、家の倉庫の中の大きな木箱にしまわれ、家族には一切開けてはならないと告げられたまま、四十年以上の時が過ぎた。
 その箱が再び開いたのは、ジョーがある教会で、小さなキリストの像を見たときだった。そのキリストの体には、原爆の犠牲になった人々の写真がキリストの体に巻きつくように、プリントされていた。
 ジョーはそれを見た瞬間、神の啓示を受けたように、数十年前に自分が撮った写真を思い出し、死ぬまで開けるつもりのなかった木箱を開けることになった。
 その写真を見たとき、自分が撮った写真を全米に公表して、原爆の恐ろしさを知らせるのが、自分の役目だと信じた。
 ジョーが公表した写真に対して、世間の目は冷ややかだった。それどころか、退役軍人を中心に、批判の声が続き、嫌がらせの電話や手紙が殺到していた。それでも、ジョーは活動をやめなかった。
 この活動への嫌がらせが原因で、彼は妻と不仲になった。妻はなぜそこまでして原爆の写真を公開し続けるのかと、自分たちの生活に何の関わりもないと、ジョーを責めた。それでも活動をやめない夫に、妻は家を出てしまう。だが、ジョーは活動を止めることはなかった。
 写真の中に、気になる写真が一枚あった。そこには、十歳くらいの男の子が、幼い弟を紐に背負って直立していた。その弟は、首をだらりと垂れて、すでに死んでいた。そして、兄は焼き場の前に直立して、弟が焼かれる順番を待っていた。その男の子は、血が滲むほど、強く唇をかみ締めながら、悲しみの表情をこらえて、前をしっかり見つめていた。
 ジョーは、その少年の姿に心を大きく乱されながらも、声をかけることが出来なかった。そして、シャッターに指をかけた。
 ジョーが八十五歳になったとき、三十枚の写真は日本でも公開されることになった。ジョーはメディアの協力を得て、その少年を探し出そうとした。結局、取材陣の懸命の努力にもかかわらず、その男の子の消息はつかめず、生きているかどうかもわからないまま、ジョーはアメリカに帰国した。
 その後、日本のメディアがアメリカまで追い続け、ジョーは自宅で取材を受けた。居間には戦後から現在に至るまで、ジョーが撮ってきた写真が、ところ狭しと飾られていた。彼、一人暮らしをしていた 
 しかし、そのカメラが捉えたジョーの姿は、孤独な老人ではなく、穏やかな表情をしていた。彼の部屋は、自分の人生の思い出に囲まれ、過去を反芻していた。
 ジョーは、自分の人生の引き出しをたくさん持っていて、一つ一つ大事に開いてはしまいながら、残りの人生を過ごしていた。ジョーは、その年の夏、この世を去った。

 物語は、ここで終わらない。ジョーには、息子と娘がひとりずついた。ジョーは妻と離婚後、二人の子を引き取り、育てあげた。そして、カメラは死んだ父親から、息子に向けられていた。
 息子が亡き父の部屋を整理していたとき、再びその木箱は開かれることになる。父に、絶対開けてはいけないと言われていたその箱の中には、当時の写真を始め、さまざまな資料が詰め込まれていた。
 資料の中身について、父が息子に語る事は一切なかった。息子がその資料を一つ一つ開いていくと、ひとつの録音テープが出てきた。それは、原爆写真の公開中に、担当のメディアからインタビューを受けていたときのものだった。
 ジョーは、誹謗、中傷をはじめ、多くの批判的な手紙が自宅に届いたことを、怒ることも失望することもなく、しずかに語っていた。その中でたった一通だけ、彼に賛同する手紙が届いていたことを明かしていた。
 その手紙は、娘によって開封されていた。 「お父さん、お父さんのことを応援する人もいるわよ、ほら、見てちょうだい」
 ジョーが、その手紙を見ると、そこにはこんな文章が書いてあった。
 「原爆の投下は間違っています。あなたの考えは正しいと思います。もし、あなたを批判するような人間がいたら、その人は図書館にでも行って、戦争についてもっと勉強すべきです」、と。
 ジョーはその手紙を読み終わったとき、その筆跡から、息子が自らに当てた手紙であることがわかり、手が震えた。娘は兄から父に向けた手紙だということはわかっていたが、隠していた。父親もそれが息子からの手紙であると娘に確認することはなかった。お互いが無言の上に、了解していた。
 父親の感謝の言葉は、当時の息子には伝えられることはなかったが、録音テープの中に記録されていた。そして、息子は、父親の言葉を数十年経ってから、録音テープを通して聴かされることになる。テレビは父親の話すテープを聴く、息子の様子を映していた。
 息子は、テレビの取材の前に、父親の声をなんども繰り返し聞いていたはずである。にもかかわらず、父親の声を聞いていた息子の表情は、顔がわずかにゆがみ、インタビューに答える唇は、細かく震えていた。
 彼は父親の意思を継ぎ、原爆写真をインターネットを通じて公開することにしたが、寄せられるコメントの多くは、原爆を肯定するもので、息子は父親が味わったと同じ気持ちを抱くことになった。しかし、彼は父親と同様に、その活動をやめることはなかった。
 彼は、生前父親が原爆の落とされた長崎で、笑顔の子ども達の写真を撮りたいと言っていたことを思い出し、長崎へも出向いた。
 そして、父親がなし得なかった、原爆の落ちた長崎で、笑顔一杯の子どもたちの写真を撮るという夢を果たすために、公園ではしゃいでいた子ども達に向け、シャッターを何度も切っていた。