森のお医者さん

   

              

         天職



 テレビや雑誌などで、ある分野で秀でた人の特集などをみると、時々こんなセリフを聞くことがある。
 「この仕事は、わたしにとって天職だと思っています。また生まれ変わったとしても、迷わずこの仕事に就きたいと思います」
 (まあ、なんてしあわせな人間だ)と、羨ましく思うとともに、(そりゃまた、けっこうなことですな)、と冷めた目で見てしまう。
  自分の性分にぴったり合った仕事と思って日々の仕事に邁進できる人というのは、そう多くはいないはずだ、というか、ほとんどいないのではないか。おおかたの人間は、今の
 仕事が本当に自分に合っているのか自問自答し、半ば妥協して生活の糧として何とかやり過ごしているのではないかという気がする。
 天職とは文字通り、天から与えられた仕事という意味であり、必ずしもその人の性分に合った仕事というわけでもないような気がする。
 自分勝手な解釈かもしれないが、天職には、二つのパターンがあると思っている。ひとつは、自分の生まれ持った才能を十二分に発揮できる仕事。もう一つは、自分がこの世に生を受けるにあたって、自分に足りないものを課題として与えられる仕事である。
 ここからは、"人間は霊的存在であり、肉体は霊が「自己表現するための道具」である"という考えに基づいて綴りたい。
 人は、それぞれ長所と短所をもって生まれ、自らの魂を磨くためには、あえて試練が必要である。長所を伸ばすか短所を克服するかは、この世に生を受ける時点で、自らが決めている。
 得意分野の仕事を与えられるということは、それに安んじることなく、それなりの成果を求められるということであり、逆境の環境を与えられたならば、それに耐えて全うすることで、魂の成長が得られるということになる。
 辛いと思いながらも、自分に与えられた仕事を全うすることは、十分に立派な生き方だと思う。かといって、全うできず仕事を替えることが悪いというわけではない。辛い仕事をした 経験や、新しい仕事に就くための新たな試練は、その人にとって大きな収穫になるはずである。
 今の仕事を替えずにやっていくことが天職なのか、それとも、今の仕事は別にある天職に就くための通過点なのかは、誰にもわからない。
 もしそれを知っているならば、もうこの世で受ける修業の意味がなくなってしまう。未知のものに向かって苦しみながら経験したものでしか、自分の身につくことはない。
 賢人の名言に耳を傾けることは大事である。しかし、それ以上に自ら経験したことが大事であり、その経験こそが、自分だけに与えられた宝物となり、魂の進化に必要なものとなる。
 運命というものはある。だが、すべてが決まっているわけではない。人生の岐路では、自分が決めるべき選択というのは必ず残されている。
 ただ、どれを選択するかで運命が大きく変わるのではなく、選択した道をどう生きるかが、大きな分かれ目となる。
 わたしたちは、肉体を離れて後も存在し、この世で生きたことはあの世で評価され、来世に引き継がれる。人生がこの世で終わりならば、この世で懸命に生きる意味などない。間は、種を残すためではなく、自らの進化を希求するために、この世に生まれ落ちてくる。
 ならば、天職はすべての人に平等に与えられているはずである。