森のお医者さん

        

    ある少女の目



 テレビのチャンネルを替えると、おさない少女が映し出されていた。小学校低学年くらいだろうか、片腕に1歳ほどの男の子を抱えていて、もう片方の腕には、ビニール袋がぶら下がっている。
 村にある小さな雑貨店で米を数キロ買って、家に帰る途中だった。そこはベトナムの田舎で、母親と弟の三人で暮らしており、父親の所在についての説明はなかった。
 少女は学校へ行かず、母親とリヤカーを押して、道端に落ちているプラスチックごみや空き缶などを拾い集めていた。
 道路はぬかるんでいて、裸足の少女は、泥に足を捕られながらも、身体を斜めにしながらリヤカーを押していた。売れるごみを見つけては、少女は母親より先に走っていき、ゴミをリヤカーに投げ入れると、母親の喜ぶ顔をちらりと見ていた。
 ご飯を炊くのは少女の役目だったが、母親がときどきご飯を食べていないことを、少女は知っていた。食べるものが少ないときは、母親と同じように、少女は自分の食べる分を弟の口に運んでいた。それでも、少女がインタビューされたとき「弟がとてもかわいい」と、はにかみながら答えていた。
 それは、途上国の恵まれない子供たちを取材した番組だった。彼女らの恵まれない環境を伝え、可哀そうな姿を映し出し、このような子どもたちを助けてほしいと援助を訴えることが目的だった。
 まともな心を持っていれば、その姿に心を動かされない人はいないだろうし、わたしも心を動かされた。
 でも、可哀そうとは思わなかった。なぜなら、彼女の眼は生き生きしていたし、「弟がとてもかわいい」と言ったときの、はにかんだ笑顔から、なにか暖かいものを感じたからだった。
 以前、途上国に住んだことがあるのでわかるのだが、貧しい子供たちは、可哀そうには
見えなかった。子供たちの瞳は、大きくていつもクリクリと快活に動いていた。
 日本に帰国してから、小学校に登校する子供たちの列に目を移すと、みんな下を向いてつまらなそうに歩いているのを見て、その違いに唖然とした。
 物に恵まれていないから気の毒だと哀れむのは、わたしたちの驕りか、誤った見方だろ
う。あの少女は、親の気持ちを察することができるし、親の喜ぶ顔を見たさに仕事に精をだし、弟の口にスプーンを差し出し、口をモグモグさせているのを見て、かわいいと笑っていた。
 本当は、このような心や表情を失ってしまった子どもこそが、可哀そうなのだと思う。この少女のような愛しい子どもは、日本中のどこを探しても、そうそういるとは思えない。
 むしろ、親の車で学校や塾に送り迎えされ、携帯をいじくりまわして親の顔もろくに見ない子どもを見つけるほうが、よほど簡単である。
 あの少女には、もちろん援助が必要である。できれば、学校へ通えるようになるといいと思う。
 だが、しあわせには、眼に見えるものと見えないものとがあって、眼に見えないしあわせの部分は、あの少女にはすでに満ち足りていると思うし、本当はそちらの方が、学校へ行けることよりも大事なのではないかという気がする。