森のお医者さん


    山奥のカフェ


  
 ふるさとは、植物でいえば、根のようなもので、ふるさとを大事にしない人間は、根のない植物と同じであると、誰かが言っていた。
 自分のふるさとは、新発田の山奥にあり、旧会津藩だった地区である。一時は4000人以上の住民がいたが、今では小学校も閉鎖され、超高齢化がすすむ典型的な過疎地になっている。
 そこへ3年前、地域おこし協力隊の一員として、都会からひとりの女性が赴任してきた。地域おこし協力隊とは、都会などから人材を受入れ、全国で高齢化や過疎に悩んでいる地域に一定期間住んでもらい、地域の活性化に一役買ってもらおうという制度である。
 その女性は、この3月で3年間の任期を終えることになり、都会に帰るのだろうと思っていたが、そのまま住み着くことになった。そして、カフェを開くことになった。
 都会の女性が、山奥のふるさとにカフェをひらく・・・マジですか?と問い返したくなると同時に、素直にうれしかった。興味本位と応援の気持ちも手伝って、オープンしてまもないカフェに、早速行ってみた。
 カフェは、空き家となった民家が改修されたもので、看板がなければ見過ごしてしまいそうな、カフェとしては控えめな建物だった。玄関には、女性らしい手作りの民芸品などが並べられ、靴を脱いで室内に入ると、襖が取り払われた広い空間に、陽の光が明るく差し込んでいた。
 部屋には、手作りの生活用品や地元の自然素材を使ったかわいらしい人形などが、箪笥を利用して展示販売されていた。キッチンは台所が改修されていて、その脇にあるテーブルに腰を下ろした。
 コップに出された水を飲んでみると、ほのかに果実の味がした。キッチンに目をやると、その水は、大きなガラス瓶にレモンややオレンジが漬け込まれていたものだった。
 そのオーナーの人柄と内装の組み合わせは、カフェというより、むしろ気軽に立ち寄れる憩いの家という雰囲気だった。カフェというと、こだわりのあるものに囲まれた空間や個性的な内装が話題になりやすいが、そういう空間は、オーナーの強いこだわりを押し付けられてようで引いてしまうことがある。
 そのカフェは、限られた予算の中で、使えるものは使い、残せるものは残すといった感じで、気どりがなかった。
 カフェで大事なのは、居心地のよさを提供することである。それは、眼で見える豪華な内装や家具ではなく、言葉のいらない気遣いであったり、要は、物ではなくて人なんだと思った。
 後日、新聞の地域欄に、このカフェが紹介されていた。その記事で、カフェを開いた理由を知った。地域おこし協力隊として赴任したが、知らない土地で何もできなかった自分をここまで支えてくれた人たちに何とか恩返しがしたい、心からここに残りたいと思った、という内容だった。
 記事の最後に、ひとりのおばあさんのコメントも寄せられていた。「このカフェにうのが生きがいになりそうです」と。
 このコメントを読んで、このカフェなら大丈夫かなと思った。自分の経験からいうと、自分の欲のために考え行動すると、まずうまくいかないし、周囲の助けもまったくない。
 ところが、誰かのためにと思って行動すると、知らないうちに周囲が助けてくれて、物事がうまくんでいく。
 これは、数学の公式のように、眼には見えないけれど、世の中に存在する神様がつくった方程式だと思っている。
 もうひとつ、聖書にこんな言葉がある。善い種からは良い果実が収穫され、悪い種からは悪い果実が収穫される。人は毎日種を蒔いており、いずれ自分のまいた実を収穫することになる。その種とは動機のことであり、果実とは結果のことを意味しているのだろう。
 このカフェは、神様の作った方程式に当てはまり、キリストの説いた良い種であったと信じたい。