森のお医者さん

   

  ある歌手の決意



 「ある歌手の・・・」といっても、実在の人物ではなく、ドラマでの話である。
 今から三十数年ほど前、NHKで好評のあったドラマシリーズがDVD化されているのを知り、懐かしくなって購入してみた。
 山陰の場末のバーで、若い男がギターを弾きながら歌っていた。そこへ、ドサ周り専門で売れない歌手を引き連れていた初老のマネージャーが、眼を付けた。ガソリンスタンドで働いていた若い男は、マネージャーに誘われるまま、東京へ出ていく。
 デビュー曲は、「墓場の島」という恋人の死を嘆いた陰気な歌だった。男は暗い表情をしながら、ぼそぼそと語るような口調で歌った。それが、大ブレイクした。
 若い女性ファンが楽屋周辺に常に殺到するようになり、マネージャーは警備員を雇うことにした。担当になった若い警備員は、有名人の護衛を頼まれ、有頂天になりその仕事に就くが、芸能界の裏の世界を知って驚く。
 そのマネージャーは、暗い歌に合うように、発言を含め、一挙手一投足に至るまで、暗い人間を演じるようにその男に要求し、生活のすべてに口を挟んでいた。有名になるには、素の人間のままではダメで、芸能界用に作られた人間であることは、警備員もある程度は理解していたが、想像以上だった。
 ある日、ステージの仕事が終わってから、車の中で一緒にいた警備員は若い歌手から
自宅のマンションで、飲まないかと誘われ、喜んで付いていった。そして、二度目に誘われた時、その歌手は警備員にある決意を語る。人気絶頂の今、引退する、しかも、マネージャーには何の相談もせず、ある日突然、ステージの上で発表するつもりだとと言った。驚く警備員にたいし、歌手はその孤独の胸の内を語った。
 自分は、本当の自分をさらけ出し、自分に合った曲を歌いたい。だが、マネージャーは本来の自分とは全く違う自分を演技するよう、要求してくる。
 懇願してみたところで、(おまえは暗い顔をして暗い曲をぼそぼそと歌うしか、芸能界に生きる道はない)と、一蹴されるに決まっている。自分の色を出し、自分の実力で人気を得ることなど、お前にはとうてい不可能であると、見透かされてもいる。
 仮に、二匹目のどじょうを狙って同じような曲を発表したところで、早々ファンには飽きられるだろう。そうなれば、食品の賞味期限が切れたときのように、自分は簡単に見捨てられ、この世界から放り出される。だから、自分はその前に、人気絶頂のこの時に、辞めてやる。
 この話を聞かされた警備員は、歌手の決意に心を動かされてしまう。そして、口外しないようと釘を刺されていたが、つい上司に漏らしてしまう。上司には、いつも太刀打ちできないような正論で説教され、二言目には、だから今の若いものは嫌いだと言われているので、こんなすごいことを決断する若者だっているのだと、自慢してやりたかった。
 予想に反し、上司は感心するどころか、それは卑怯なやり方だと言った。辞めたいなら、辞めたいとマネージャーに話をするのが礼儀ではないかと言った。若い警備員は、すぐさま反論する。
 あの歌手は、自分は弱い人間であると認めている。自分の好きな曲を歌いたいと言っても、辞めたいと言っても、許すはずもないし、それに反論するだけの強い主張もできない。結局はマネージャーの言いなりになり、いずれ使い古されてしまうのがわかっている。だから、黙って辞めるのだと。上司は、それなら自分がマネージャーに掛け合ってやると言い出した。
 辞める勇気、続ける勇気、どちらの勇気を支持するか。もちろん回答はない。演技をすることに疲れ果てた、自分をもっとさらけ出したい、と歌手は言った。これに対し、甘いんだよ、と反論する人間もいるだろう。
 歌手に限らず、人間はすべて演技をしながら生きていると言ってもいいかもしれない。サラリーマン、主婦、教師、料理人、ありとあらゆる職業の人間は、型にはまった行動を強要され、無意識の上に演じながら表面上の社会が成り立っている。
 もし、お互いが好き勝手に自分をさらけ出してしまえば、人間関係は容易に壊れ、傷つく人間も多数出るだろう。例えば、医者は医者らしく振舞うこと、これでは面白くないというのは簡単だが、そのらしさに安心感を得ている患者さんも多くいる。
 ただ、あの歌手の場合、その演技が他人から無理に強要されたものであるという点で、大きく異なっている。歌手は、自分は賞味期限のある商品であるということも、独力では芸能界に生き残れないことにも気づいている。
演技させられたあと、自分には新たに演技できるものはなく、それで終わってしまう。
自分の意志で、演技をすることができず、全く違った人間を演じさせられて、芸能界から去っていかなければならない、その無念というものがある。せめて、人気絶頂のときに引退することによって、自分はそんな言いなりになるだけの人間ではない、と主張したかったのかもしれない。
 とうとう、引退の決意表明の当日を迎えることになる。その日、歌手の決意は警備員の上司を通してマネージャーの知るところとなっていた。
 予想通り、その決意表明はマネージャーには相手にされなかった。今のお前に引退できるはずはないだろう。せっかくつかんだこの栄光を捨てることができるか、と説得される。 返事をせずにただ黙ったままの歌手の顔を、マネージャーは睨みつけるが、歌手のこわば
った表情の中に隠れた鋭い視線を感じ、一瞬たじろいでしまう。お互いの主張が平行線の
まま、公演の幕が開き、歌手は舞台の上に進んでいく。
 舞台裏で、マネージャーと警備員の見守る中、静寂が流れる。いつまでも歌わない歌手
に、観客がどよめきはじめる。歌手は下を向いたまま、最後まで考え抜いていた。観客にせかされ始め、ようやく歌手はマイクを取って口をひらいた。
 その口からは、いつものように、陰気でぼそぼそとした歌が流れ始めた。そして、引退の
言葉が出ないまま、舞台の幕は閉じられた。若い警備員は、呆然としてその歌手を見つめていた