森のお医者さん


         夫婦喧嘩



 友人が、ここ数日ほど妻が口をきいてくれないとこぼしていた。原因がわからないという。原因がないのに口をきかないということはあり得ない。おそらく友人がその理由に気づいていないだけだと思うのだが・・・。
 自分も同じような経験を何度かしている。ただ経験上、妻に理由を聞くことはしない。どうして機嫌が悪いのか、聞いてしまえば解決の糸口がつかめることはわかっている。ただ、自分の行動に原因があったに違いないということもわかっている。
 (たぶんあれだろうな)とは思うものの、年をとったせいか、わかったところでこちらから折れたり、謝ることができなくなっている。だから、いっそのこと聞かないことにしている、というか、自分は悪くないのだということにしている。
 その友人には、そのうち時間が解決するから、とだけ言うにとどめた。本当は自分から謝ることができるならば、その理由を聞いたほうが早く元の鞘に収まることはわかっている。だが、自分ができないことをアドバイスするのもどうかと思うし、よほど深刻でなければ、夫婦喧嘩は時間を待つだけで解決されることが多いからだ。
 夫婦喧嘩でいちばん気が重いのは、食事のときである。まず、妻が食事を用意しているときの包丁で野菜をきざむ音や、蛇口から出る水の音も、いつもより大きく聞こえる気がするし、テーブルに料理を置くときの音も力が入っていて、(怒っているな)とわかる。
 それでも助かるのは、妻の機嫌が悪い最中でも、いつもどおりに食事が出てくることである。喧嘩が治まるまでは、妻の食事の支度が途絶えてしまい、男は冷蔵庫の中をあさるだけという夫婦もあるようだから、わたしの場合はまだ恵まれている。
 食事も隣り合って座らなければならず、普段あるはずの会話がなくなっているから、何とも言われない張りつめた重い空気が漂っている。当然食事も進まず、酒の入ったグラスをテーブルに置く音だけが、やたらと響く。
 それでも、2,3日すると、妻の方から(いい加減相手にしてられないわ)という空気に変わってきて、何気ない会話が発せられるようになったり、酒をついでくれたりする。
(ようやく雪解けの時期がきたか)と思うものの、わたしの口は重いままで、むっつりしている。急に機嫌のいい返事をするのは、何とも恰好がつかないから、とりあえず、(うん)とか(ああ)とか生返事をする。そんな短い会話があると、次の日くらいになって、ようやく普通の会話に戻っていく。
 まあ、夫婦にもよるだろうが、たいがい妻の方が大人で、夫の方が子供である。概して明治の流れをくむ昭和生まれの男は、妻に対して誤るのが苦手で、それも妻の方も分かっているから、しようがないわね、と思いつつも、相手になってくれるので、それでなんとかやっていられるのかもしれない。
 イタリアのことわざに、次のような言葉がある。男が頭とすれば、女は首である。なぜまら、頭は首の動く範囲でしか動かすことができないからだと、なるほどと思うのは、わたしだけとは思えない。