森のお医者さん


        知識と体験



 これは、三千年前に地球に一度だけ人間として現れた高級霊からのメッセージを、わたしなりに脚色したものです。
今の世の中は、ありとあらゆる分野に関する知識が、簡単に手に入るようになっています。テレビでも、タレントや有名大学の学生などが出て、豊富な知識をひけらかすような番組などもみられます。
しかし、その多くは知識というより、単なる雑学に過ぎないものがほとんどで、生きる上で大切な智恵とは違うものです。
 たしかに、知識がないことよりある方がいいに決まっています。ただ、仮に世界中のありとあらゆる知識を詰め込んだところで、人間として成長することとは何の関係もありません。
 どれだけ多く知識を詰め込んだところで、生きる上での役には立ちません。知識として記憶しているだけでは、本当の意味で理解しているとは言えません。大切なのは、体験です。実生活の場で、真剣に体験してこそ、その知識を受入れる準備ができるのです。
 この世で体験することは、すべて自分の人生に必要なことばかりです。無駄な体験は何一つありません。ただ、多くの人はそれに気づかないだけです。肉体から解放されて、
 この世をふり返ってみる時、偶然と思われている出来事の一つひとつが、すべて自分に意味のあるものだったと気づくことになります。そして、その経験を生かせなかったことに後悔をすることになります。
 誤った行動をして後悔することも当然あるでしょう。でも、それでいいのです。過ちのない人生では、この世に生まれ落ちた意味がありません。ひとはみな、過ちを体験して自分に足りない正しい知識を身につけ、それを携えてあの世に戻っていくのです。
 人生が、墓に埋められてすべてが終わりと思っている人にとっては、この真理を理解することはできないでしょう。なぜなら、その知識はこの世で生きているうちに必ずしも役に立つとは限らず、来生にこそ生かされるものだからです。
 体験して得た知識は、魂に刻まれたもので、決してその人から離れることはありません。誰も覗くこともできなければ、触れることもできません。ですから、お金のように落としてなくすこともなければ、誰からも奪われる心配もありません。それは、単なる人生訓のようなものではなく、魂の宝物といってもいいかもしれません。 
 その宝物は、毎日楽しく暮らしているだけの人には決して手に入れることはできません。さんさんと太陽が輝く穏やかな日和で暮らしているのではなく、暗雲垂れ込める暗い日々や、嵐の吹きすさぶ日々を経験した人でないと、手にすることはできません。宝物は、悲しみや苦しみの中にこそ埋もれているのです。
 種は、蒔きさえすれば芽が出るものではありません。芽が出て成長するには、太陽の光と水が必要です。種が知識とすれば、光と水が辛苦であり悲しみであるのです。
 すべてが順調に言っているとき、神に感謝するのは誰にとっても容易です。逆に、困難のさなかにあるときは、それを感謝することは難しいでしょう。
ですが、困難を乗り越えて振り返ってみたとき、それが自分の成長にとって大事な経験であったと気づき、感謝の気持ちが湧いてくるにちがいありません。困難こそ、成長のチャンスであり、魂の肥やしなのです。
 正しい知識を得るということはとても大事なことです。正しい知識とはどんなものか、それはみなさん一人ひとりが自らの体験を通して掴んでほしいと思います。