大木になる条件

 わたしの実家では山林を所有しており、毎年春になると山林内を歩き回ることにしている。その多くは、植林後五十年〜八十年以上経った杉であり、すでに採期を迎えている。
 だが、伐採後の地ならし、植林、刈払い、間伐と、数十年間の手入れを考えると、人手の確保や経費からいって、手が出せない状態にあり、もっぱら仕事の疲れを癒す山林浴代わりに使用している程度である。
 そのいくつかある山林の中に、お気に入りの樹木がいくつかあるが、その中に推定樹齢三百年以上の杉が一本残っている。神社に植えられた恵まれた杉を除けば、珍しいといえる。
 なぜなら、山林の樹木は、用材として植えられるために、ほとんどは、樹齢五十年を越えたあたりから、伐採される運命にあるからだ。
 では、なぜその大木は伐採されずに残っているのだろうか?その大木は、樹高の半分くらいのところから、三本に分かれているのだが、それが伐採されずに残った理由ではないかと思っている。 つまり、それは用材としては役に立たないということを意味している。用材はまっすぐ一本に伸びているのが望ましいが、三本に分かれていれば、材木としては不適格である。
 それ故に見捨てられた木でもある。この役に立たないということが、大木になる条件だったのだと思う。
 人間にとって役に立たないという理由で放って置かれ、伐採を免れ、本来の大木としての姿に成長できたのだと思う。
 これは、人間に当てはめてみることもできるだろう。役に立つ人材は、いろいろな方面から、引く手あまたで、さまざまな要求に答えることを期待される。
 しかし、それは本来の個人の持っている能力を封印され、周囲にとって役に立つ人間というだけで、生涯を終えてしまう可能性がある。
 ところが、役に立たない人間というのは、周囲から期待されない代わりに、誰の干渉も入らず、長い年月をかけて少しずつ成長し、自分の中に秘められた能力を発揮し、周囲が気づいたときには、大人物になっていることがある。
 それは、損得を勘定する経済社会のものさしで、優れているというのではもちろんない。人間の生きる姿として、すばらしいのである。
 三本に分かれた杉の大木は、用材として役に立たなくとも、その姿は見る者を感動させる魅力を持っている。一見役に立たないと思われても、たくましく生きる姿を示してくれる人間も、今の社会には必要である。