分相応   

 ウルシという樹木は、ほとんどの人は知っていると思う。葉っぱに肌が触れると、かぶれを起こすあの木である。ウルシは、典型的な陽樹である。
 陽樹というのは、太陽の日差しを一杯に浴びることができなければ、生き延びることはできない木という意味である。かれらは、荒地のような伐採地に、早々と登場する。 
 なぜなら、既に森が形成されているところでは、光が不足して、入り込むことができないからである。幼いときのかれらの成長の仕方は、ひょろひょろと伸びて、てっぺんに唐傘のように細い枝と伸ばして、葉を広げ、他の植物よりも光を独占しようとする。
 ウルシのような陽樹は、常に十分な光を必要とするのだから、誰よりも早く成長しなければ、生きていけない。ブナやナラのような巨木とは違って、根っこをしっかり張ってからではなく、とにかく空に向かって、速く、高く伸びようとする。
 その結果、家で言えば、安普請ということになり、強度が不足するために、大木にはなれない木でもある。
 ここまで聞くと、「なんだ、ウルシというのは、中身のない安っぽい樹木なのか」という印象を持つかもしれない。
 だが、ここが、樹木の人間と違って偉いところでもある。彼らには、われわれ人間と違って、能力以上の高望みは決してしないということである。彼らの冬の姿を観ると、棒切れが立っているような簡素な姿である。
 つまり、太い枝を残して、横にのびた細い枝はほとんど地面に落としてしまう。少ない蓄えで、急いで成長したのだから、枝の構造は弱く、冬の積雪に耐えられないということがわかっているからだ。だから、惜しげもなく、枝を全て落としてしまい、幹と太い枝のみのシンプルな姿になる。
 彼らは、「分相応」ということをわきまえていて、自分の実力以上のものは身に着けない。身分不相応に余分なものを身につけようと思っても、身が持たないことを知っている。
 ウルシが十分成長した頃には、かれらの足元には、光不足でも生きていける陰樹の幼木が控えていて、そこにはウルシの幼木が育つ環境はなくなっている。
 ウルシはその場所に執着することなく、種を風に任せて遠くへ飛ばし、新しい土地に、新しい生命を託すのである。
 樹木は、それぞれ自分に合った生き方をしている。みんなが巨木になることはできない。それに、決して巨木だけがすばらしい人生を送っているとは限らない。
 余計なものを背負わない、シンプルな生き方もなかなか良いものだと思う。何でもかんでも得たものを抱え込むのでは、いずれポッキリと折れてしまうことになる。
 得たものの何割かを捨てていかなければ、あたらしいものは手に入らない、そんなことをウルシの木は教えてくれる。