老木の一枝



 物事を柔軟に考えるということは、生きる上で大事なこととされている。
 樹木は、若いうちは柔軟である。柔軟であれば、雪や強風などの外からの力に逆らわないから、体を痛めることもない。
 未熟な若木にとっては、外からの力に耐える力がなく、柔軟であることが、生きる上で必要となるが、それだけでは、大木になることはできない。
 大きな体を支えるには、強固な幹が必要になる。その反面、その代償として、自分にとって堪えられないほどの大きな力がくれば、体をしならせて力を逃がすことができずに折れるかもしれない。
 若い樹木は、さまざまな方向に枝を伸ばすが、やがて幹となる方向が決まりってくる。時によっては、手ごわい競争相手に光を奪われ、枯れて朽ちてしまう枝も出てくるし、運悪く雪で大事な枝を折られることもあるだろう。
 そのような苦難を繰り返し、何十年、何百年とかけて、莫大なエネルギーを使いながら、彼らの姿は出来上がっていく。たとえその姿は不恰好でも、長く生き抜いた木は、見るものを圧倒するだけの力強い美しさを示してくれる。
 しかし、彼らの姿かたち(生き方)はすでに出来上がっているのだから、急激な環境変化(時代の変化)には対応しきれない。歳をとって、こわばってしまった彼らの体はいずれ弱り、死を迎えるときが近づいてくる。
 そんな老木であっても、よく観ると、ところどころに細い未熟な枝が、さまざまな方向に向かって伸びだしているのに気付く。
 そのいくつかは、上手く光を捉え、やがては成長し、彼らの巨体を養う可能性を秘めている。もっとも、樹木全体に必要なエネルギーからすれば、微々たるもので、それによって命が永らえるというものでもないかもしれない。
 無駄に思えるような行為かもしれないが、大事なことは、年老いた彼らが、生を途中で投げ出すことなく、最後まで新しい枝を伸ばして、生きようとしていることである。
 良い悪いは別として、硬くなってしまった幹は、自分の生きて きた証である。それは、自分の人生を支えてくれたもので、その姿を大事にしたい。
 だからといって、硬くなっただけで自分の生を終わらせたくもない。老いた自分が生きていくために、新しい枝をいくつも伸ばして、それらのうち、自分の生にエネルギーを与えてくれるように成長していくことを期待したい。
 自分のこわばってしまった体は、もう変えることはできなくとも、ささやかでいいから、小さな新しい芽を出し続けて生を全うしたい。