ひと粒の種

 机の上に、朝顔の種がひとつあり、生きることが嫌になってしまった人がそこに座っているとする。もともとは真っ直ぐに生きていたのだが、不器用で周囲と合わせることが出来ず、世知辛い世間に恵まれず、投げやりな考えになってしまっている。
 冒頭に示したひと粒の朝顔の種。植えても、植えなくても、早晩命を終えることになる点では同じである。土に植えれば、一年後にはその命を終えることになるだろうし、引き出しの中にしまったままでも、いずれ発芽能力を失い、その生を終えることになるだろう。
 引き出しの中に種をしまったままにすれば、生の喜びはないが、苦しみもないまま静かに生を終える。土に植えてしまえば、さまざまな困難が待ち受けている。あるいは花が咲くことなく枯れるかもしれない。
 そして、その人に、尋ねてみる。あなたなら、そのひと粒の種をどうしますか、と。その人は、喜びはなくてもいいから、苦しみのないほうが良いだろうと、その種を引き出しの中にしまってしまうだろうか。もしそうだとしたら、その前に、種に、あなたはどうしたいのですかと、尋ねてほしい。
 その種は、こう答えるかもしれない。わたしは、できることなら、土に植えてもらいたいと思います。つらいことが多く待ち受けていているのは、わかっています。だいたい、生きること自体、そんなに簡単なことではありません。
 あなた方人間は、ただ生きるということだけでは満足できずに、さまざまな欲を持ちます。だから、それが思い通りにならずに、苦しみ、生きることが嫌になるのです。
 そもそも、生きること以外の欲なんて、早々手に入るものではありませんし、仮に手にしたとしても、手に入れた喜びはあっという間に消え去ってしまいます。
 それどころか、その幸福感が忘れられずに、それに引きずられ、自らを不幸にしてしまう人もいます。わたしたちは、「これさえあれば」と思うのではなく、「これがなくとも」と思うようにしています。欲望を一つ一つ削っていくと、水があって、太陽の光があって、それだけで満ち足りた生活が出来るようになります。
 ただ、生きるために必要な水と光を獲得するためには、一切手を抜きませんし、精一杯努力します。そうすれば、何のために生きるとか悩む必要はありません。外に刺激を求めなくとも、余計なものが消えた素朴な生活の中にこそ、
 たしかで確実な喜びがかくれているのです。花が咲かずに、途中で枯れてしまっても構いません。しあわせは、花を咲かせるこあるのではなく、生きることの中にあるのですから。
 ですから、わたしを土に植えてください・・・と。