若木と老木


 若い木というのは、勢いがある。失敗を恐れず、どんどん成長していくる。
 だから、あらゆる方向に枝を伸ばそうとする。その反面、過ちも多く犯し、無駄なエネルギーを使ってしまうことになる。彼らの姿を見ると、むやみやたらに枝を伸ばして、あまり美しい姿とはいえない。
 どうしてか? よく観察してみると、若木の幹や枝はすべて直線で構成されていて、不自然な姿をしている。
 枝の素材自体は柔らかくとも、自らの生き方は角張っていて、まだ自分自身を修正することができないでいる。
 彼らは、自らの枝が枯れたり、折れたりしなければ、自らの生き方を修正しようとしないだろうし、逆に考えれば、それを少しずつ積み重ねることによって、成長していくことになる。
 人間も同じである。成熟した大人から見れば、若者はつまらないところに興味を持ち、無駄な時間を費やしている。
 何が大事で、何が無益なことかも知らない。若木同様、素材は柔らかいのだが、柔らかく生きることができない。どうしても角張り、いずれその鼻柱は折られてしまう。
 それに対して、老木はどうだろう。既に多くの過ちを経験し、彼らの姿は作られている。育った環境によって、彼らの姿はさまざまであるが、どの姿も美しい。
 なぜ美しいと感じるのか。それは、彼らの姿には、自然の力に逆らうことがなくなり、自然と調和した姿になっているからだと思う。自然の中で生きるのに必要なものだけが残っていて、装飾的なものは削られている。
 老木の幹や枝はというと、若木と違ってきれいな曲線を描いている。それらは、すべて自分自身で修正していった結果である。
 老木は、溢れるようなエネルギーはない代わりに、限られたエネルギーを有効に使う術を知っている。美しい姿をしていながら、無益なことにエネルギーを使わない智恵を彼らは持ち合わせている。
 それを思えば、年をとることは悪くないと思う。多くの若者は好きなことをすれば、それは道に外れることが多く、その結果、苦しい想いをすることが多い。
 年をとれば、好きなことをしても、それが道に外れないような生きかたになる智恵を持つことができるし、それは自らを苦しめない楽な生き方である。
 今の時代は、何でも過剰に需要を作り出し、過剰に生産し、過剰に消費し、過剰に捨てる若木のような時代である。
 むしろ、昔の時代のほうが生活の智恵が蓄積され、限られたエネルギーを大事に使っていた老木の時代だったような気がする。文明がどんどん発達し、便利な時代にはなっているが、成熟した時代がどんどん遠のいていく気がする。