命の循環

  
  
 確か、小学校に入ったばかりの頃だったと思
う。両親と同じ部屋で寝ていたが、いつも弟と二
人で、布団を隣り合わせにして、先に寝ていた。

 そして、毎日のように、弟が寝静まったあと、
死ぬことを考え、一人で涙を流していた。自分が
死ぬことを考えると、どうしようもなく怖かっ
た。もし、あの世がなければ、死ぬことは、この
世から消え去り、無になることである。

 自分の知っている人間が、いつもと同じ毎日を
送っている。けれど、自分はその世界を、覗くこ
とさえできない。自分が跡形もなく、この世から
消えてしまうことに、堪えられなかった。

 今では、死の受け止め方は変わっている。祖父
や祖母など身近な人間の死を体験し、死を身近に
考えるようになった。死は何もない無の世界に向
かうのではなく、親しい人が通ったと同じ道を辿
る、ひとつの体験のようなものだと思っている。

 生まれ変わりがあるかどうかは、わからない。
ただ、人間の姿をしていなくとも、さまざまな形
でどこかで生き続けているのだと、思えるように
なった。

 死は終わりではなく、新たな命の始まりでもあ
る。「命の循環」という言葉を耳にするが、この
意味を頭で理解しても、感覚として持っている人
は、さほど多くないように思う。

 樹木の姿は、さまざまである。若い樹木たちが
競争している姿もあれば、大木になって悠々とし
ている樹木もある。かと思えば、病気にかかった
り、生存競争に敗れたり、あるいは老齢化で弱っ
ている樹木もある。

 既に死に絶えて、幹だけが遺跡のように立って
いるもの、倒れて朽ち果て、土に帰ろうとしてい
るものもある。その朽ち果てた樹木の上を観る
と、どこからか、風に吹かれて舞い落ちた種が芽
を出し、新しい命が生まれている。

 森には、生と死が混在している。命の循環が、
森という一つの舞台にさらけ出されている。森の
中に身を置くと、自分も他の樹木と同じ大地の生
きものであり、いずれ大地に帰り、あたらしい命
の元になると感じる。眼に見えない魂という存在
についても、知らないうちに、体の中に受け入れ
ていることに気付く。

 現代社会は、死の存在を、感じさせないシステ
ムになっている。病人は病院に送られ、死ねば儀
式の中に葬り去られてしまう。死は目立たないと
ころに追いやられ、街には一見元気な人間ばかり
が、あふれている。

 自然の中に身を任せ、自分が草木の仲間だと感
じたとき、命の循環というものを、頭ではなく、
皮膚の呼吸を通して、感じるようになる。