家に帰るとき、いつも樅の木が立っていた。わたしは、自分の好きな木を挙げろと言われたら、この樅の木をそのうちのひとつに挙げたい。
明治の頃、祖父が兵役義務の身体検査を受けたとき、小さな樹木の苗を、その記念として門の前に植えた。それが、樅の木だった。祖父が植えたと知ったのは、祖父が死んで二十年以上経ってから、父から知らされた。祖父はわたしが二歳のときに、脳溢血で倒れ、まもなく寝たきりとなり、以来十年間、闘病生活を送った。祖父といえば、離れの隠居部屋で寝ていた姿しか、記憶にない。 小学校に出かける前、母親に言われ、ときどき祖父の部屋へ行った。廊下を通って襖を開け、正座してから「行ってきます」と伝えた。その頃の祖父は、目はほとんど見えず、耳も遠くなっていた。枕元にいた祖母は、それを祖父の耳元に伝えた。口のきけない祖父は、それを聞くと、いつも涙をこぼして、小さなうめき声をあげていた。 自分の大事にしたいもの、それはすべて背景に物語がついている。宝くじで当たった一千万円で買った宝石よりも、小さいとき父親と川原で拾った石ころのほうが大事であるように、あるいは、一流レストランで食べるフランス料理よりも、遠足で母親に握ってもらったおにぎりのほうがおいしいのも、それらには、自分の物語がついているからである。
物語のないものは、どんなに高級でも、高価なものでも、味気ないし、そんなものは、自分にとっての真のブランドではない。自分のブランドに気づかず、あるいはブランドを持たない人間が、いわゆる世間でいうブランド品に安易に飛びついている。