義経の影説は、水戸黄門の徳川光圀が編纂したと云われる「大日本史」の中に『世に云う。義経は衣川の館に死せず,逃れて蝦夷に至る・・・』とある。 当時は血液検査やドライアイスなど思いもよらぬことだったし、五月から七月にかけての暑い時期に四十三日もかけて鎌倉まで義経の首を運んだところで、 腐乱が進んで首実検などできるはずがなかった。 ようするに頼朝はどこの馬の骨だかわからない首を義経の首と認めたのかもしれない。 このような説から義経は衣川では死なず蝦夷へにげたという説が出てきたらしい。

こんな話もある。弁慶は衣川の合戦で,義経の盾となって数十本の敵の矢を受けて憤死した。 と云われているが、この弁慶なるもの実在の人物ではなかったらしい。   これは赤穂四十七士が吉良邸への討ち入りの際、そろいのはっぴを着ていたのとおなじで、後の世に歌舞伎等で作り上げられたものらしい。ただ、義経と鞍馬山から一緒だった弁太なるものがモデルになった可能性はある。 
弁慶は一生のうちアレは三度しかしなかった。 と云われているが、弁太は平泉に来て女もつくったし、そっちのほうも毎晩だったらしい。 こんな弁太が義経の盾となって憤死するなんてことはとても考えられない。

三厩の村にはこんな言い伝えがある  この弁太が女と供に平泉を脱出し、津軽三厩まで辿り着き、弁太は女と一緒に海辺から小船に乗って大陸のほうに渡っていったとされる。 そしてこの村には弁太稲荷と云うちいさな祠が在ると言う。 もし弁太がチンギスハンになったら?? たぶん子孫はたくさん作ったに違いない。そして弁太チンギスハンの末裔が横綱朝青龍????・・・

この珍説のほうが現在に続いているし、 相撲ファンなら最近にないビック珍説で大喜びをするだろう。

津軽三厩義経寺
次に
三厩村には、津軽海峡の先に蝦夷地を望む高台に義経寺があり、そこに、こんな話も伝えられている。文治五年(1189年)兄頼朝の
計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた。
藤原秀衡の遺書(危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷ケ島へ渡るべし)のおり北を目指しこの地に辿り着いた。
近くに蝦夷ケ島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩の上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。
丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、"三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。"と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷ケ島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩]村と呼ぶようになったとある。