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 =石脇潤のキリマンジャロ 自力登頂記=

 
フリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山に、海から自力で登ることができたら面白いだろうな・・・ そんな漠然とした思いからすべてが始まった

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海抜0 mからキリマンジャロ 山頂 5895 mへ。 
2006年3月31日〜4月21日)

旅程概略:
北海道(女満別)発 → ナイロビ着 → インド洋のモンパサまで列車 → 登山口のタンザニアのマラングまで自転車 (575 km、7日間) → キリマンジャロ登頂(5日間)


登頂記録:

出国から帰国まで・・・


2006年331日、日本出国。関西空港で自転車を始め、43 kgの荷物重量の指摘を受けるも、出発の時刻が迫り無事機内へ。

41日の夕刻にナイロビ着。タクシーでホテルに向かった。明らかに料金はボッている。しかし初めてのアフリカの熱気に呑まれ、ほぼ無抵抗に支払った。 2日は日曜なので、ホテルに引きこもり、試しにホテルの水をそのまま飲んでみた。翌3日、腹の具合は悪くなく、ひと安心。午前中、タンザニアビザを取得、当日の夜行列車でインド洋沿岸の街モンバサへ。 4日午前、モンバサ駅着、自転車を組む。橋の無い海沿いの入り江を船で渡るので、キリマンジャロ登頂を目指すなら、ここが標高0 mの出発点だ。船着場の時計はほぼ正午。川を渡り、海沿いに南下して5日にタンザニア入国。初めて陸路、国境を自転車で通過した。6日は豪雨、国境から未舗装道路で泥と水との戦い。7日、インド洋沿岸の街タンガを後に、西の内陸へ。ここは舗装道路で快適。暑さも次第に和らいできた。

道中、村々を訪ねて10日にアフリカ到着後、初めてキリマンジャロを目にした。キリマンジャロまで残り50 kmだ。山は小さいが高く見えた。その日に登山口の村、マラングに着き、家に泊めてくれると言うガイドさんと契約した。11日、登山開始。自転車と荷物はガイドさん宅へ。登山口の標高は1800 m付近で、日毎に1000 mずつ高度を上げるから4日後には山頂に着くことが出来る。が、その晩の山小屋で早くも体調を崩した。登山2日目も体調は回復せず、登頂にこだわらなくても十分に楽しんだ、と半ばあきらめていた。登山3日目朝、起きると嘘のように体調が回復しており4000 m以降は、ひどい高山病に悩むことはなかった。登山4日目の14日、0時に小屋を出発し5時にキリマンジャロ山の最高峰ウフルピーク(5895 m)に着いた。その日に中間の3700 m付近まで下り、使い終えた登山用具をガイドさんとポーターさんに譲った。ガイドさんはそのことがチップに影響しないかと随分心配していたようだ。15日下山、ガイドさん宅に宿泊。納屋に放置された自転車を修理し子供たちと遊ぶ。どこからか、もう一台の自転車と一輪車が運ばれてきた。臨時の修理屋になった。

17日から2日間、キリマンジャロ山麓の街、モシのプール付のホテル(高級ではない)に泊まり身体を癒す。エイズ孤児の保護施設を訪ね心ばかりの寄付をしたことに有頂天になる。しかし、自分の登山費用に800ドルを平然と使ったことを考えて、自己嫌悪した。19日、バスで国境を越えてナイロビへ。自転車はバスの屋根へ。20日早朝、ケニア出国。減った荷物は22 kg。超過2 kgは何も言われなかった。持参した財産は殆ど使い果たしたが良い旅行だった。21日、4時間遅れの飛行機で夜に帰国。復路は時差の分だけ損した気分になった。先ずローソンに行き、鮭と筋子のおにぎりにかじりついた。店の蛍光灯が眩しいほどの明るさで、ふと、アフリカは今頃、夕焼けだろうかと思った。




 記憶に残る出来事・・・

列車の窓から顔を出し、外を眺めていたら、晴れているのに水がかかってきた。車内のトイレに入った時、その水がトイレの排水だと分かった。また、車窓を眺めていたら異臭が鼻を突いた。ゴミ捨て場の脇を通過していたからだ。ゴミを拾う子たちの姿をみた。日本のテレビで見たことはあるが、正直言って、実感を持てない他人事だった。今回は車窓から見ただけだが、ゴミをあさる子供の姿と、その臭いを嗅いだのは初めての経験だ。とても他人事とは思えない。今は何も手助けできないが、帰国したらもう一度、今の自分の生活を見直さなければ。

自転車で走った沿線の村には電気が届いており、大抵の宿の冷蔵庫には冷えたコーラ、ビールがあり、タバコもテレビもあった。そんな村でも、文具を買うとなると苦労する。売っている店がない。ビールやタバコがあるのに、栓抜きやライターは手に入らない。日本では、オマケの人形つきコーラや、宣伝用のライターつきタバコが売られていた。ボールペンつき、ライターつき等、おまけつきコーラ、等は有り得ないものなのだろうか。コカコーラやペプシのシェアの広さに驚くと同時に、ふとそんなことを考えた。現実的にはオマケを付けたところで、オマケそのものを確実に消費者まで届けるのは、かなり難しい気がする。旅行中にボールペンをあげたり、取られたり、無くしたりして、最後は赤ペン1本を貴重品袋に保管することになってしまった。銭とペンは大人にも子供にもよくねだられた。

キリマンジャロ登山中はガイドさん、ポーターさんと3人で行動をともにしていた。他に日本人登山者1人、欧州人の数組のパーティが同一日程だった。登山は勿論すばらしい思い出になったが、日本人と欧州人の考えかたの違いを垣間見ることもできた。私は登山に際して、自分のためにもポーターさんのためにも、可能な限り荷を減らし軽量化につとめた。しかし、ポーターさんは「荷物はこれだけか」と、つまらなそうな顔で、結局、私が持つつもりでいた荷物も殆どを担がれてしまった。

山小屋の食事は質と量とも申し分なく、もう1人の日本人とともに、それぞれのガイドさんに食事の同席を勧めたが、「何故?」と言うような反応であった。私たち日本人が出した結論は、無用な気遣いは、かえってガイドさんを不安がらせ、ポーターさんの仕事を奪うことにもなりうる、ということだった。その点、欧州人組みは割り切っている。荷物に、およそ登山には使わないような、ハードケースの鞄が含まれていたり、食事の食べ残しが多いことが気になった。たまたま、その欧州人だけがそうだったのかもしれない。しかし、少なくとも日本人には金を払ったお客様でも、ものを食べるときは「いただきます」、食べ終えたら「ごちそうさま」、あるいはバスを降りるとき「ありがとう」と言う習慣がある。近年は忘れ去られがちだが、日本人って本当は素晴らしい世界に、誇るべき習慣の持ち主なのではと考えた。下山してから知ったことだが、見えないところで、もう1人のポーターさんが水、食料を荷揚げしていてくれたらしい。1人に対して3人のサポートがつく「殿様登山」であった。

ガイドさん宅に泊めてもらったとき、山羊の乳をジョッキにいっぱいもらった。舌にビリビリするほど発酵していた。子供たちが、羨ましそうに見ていたのでジョッキの半分を喧嘩にならないようにコップに少しずつ分けてあげた。子供たちが一気に飲み干したのを見て、安心して飲むことができた。慣れるとヨーグルトサワーのようだ。他に、蜂の巣付きの蜂蜜をもてなされ美味しかった。もてなしの心に感謝すると共に、あらためて日本の食文化の豊かさを知った。暇だったので、食事のお礼を兼ねて家の手伝いをした。薪割りは、大人の私でも重労働。芋の皮むきは使っている包丁が粗末なもので苦労した。自分の小型ナイフを持っていたが、なんとなく使うことができなかった。納屋に壊れた自転車を見つけ、修理する。とは言っても無くなっている部品もあるので、ひとまず走れる状態にすることを目指す。変速機は修理不能と見て取り外す。余った変速機のワイヤーをブレーキのワイヤーに代用する。チェーンは腐っている部分を詰め、ギアは軽めのシングルにした。タイヤは空気が抜けていただけで、チューブに穴はなかった。空気が入ってタイヤが、ぱんぱんになった時の、子供のはしゃぎようを忘れない。残念なのは、この家に空気入れがないこと。タイヤの空気は自然に抜けるから、長くても半年もすれば、空気は抜けてしまう。自分の空気入れを置いていくことは、自分がまだ走らなければならないことを考えるとパンクする可能性もあるのでできない。これをきっかけに、彼らが何とか空気入れを手に入れる努力をすることに期待する他ない。

モシの街でエイズの孤児院に寄付をした。旅行は終盤になり、キリマンジャロ登山の目的も果したので、思い切って、残り数日の旅費を残して、余りを寄付した。無論、後悔などない。先方には感謝の歌まで歌っていただき、有頂天になりながら近くの食堂で食事をした。新聞売りの子供が寄って来たとき、むげに追い払ってしまった。いつもの事で気にならなかったけれど、後から、なぜ新聞一部を買ってやれなかったのだろうと後悔した。登山に大金を使い、それに比べれば少しの寄付金に自己満足して、自分にとって、金の価値って何なんだろう。

復路のカタール航空機内には日本人団体客が多かった。機内食が配られ始め、日本人は和食か洋食を選ぶことができると知った。乗務員さんが私にかけた言葉は、隣席の日本人客とは違い、「Japanese or Western?」ではなく「Fish or Chicken?」だった。和食は日本人が優先だとのこと。となりの日本人のおばさんと笑ってしまった。これで私も日本人から国際人へ仲間入りだ。





感謝でいっぱい


『自力』実行という軽い気持ちで始まったこの旅行。しかし、自力とは言っても単にエンジンを使わなかったというだけのこと。登山はガイドさんとポーターさんの力を借りた。街の人々にもお世話になった。アフリカを知っている友人がいたことも財産だった。キリマンジャロ登頂達成は本当に嬉しい。だが、それは本当は「オマケ」のようなものだ。それ以上に、ものについて深く考えさせられる機会を得ることができた。自転車がそれを体感させてくれるもっとも有効な道具だった。これらすべての出会いがなければ、一生アフリカに興味すら持たずに過ごしていただろう。何もかも恵まれている日本に帰国した今、あらゆるものに感謝せずにはいられない。