Chocolate戦線

モクジ

  戦いの火蓋が切って落とされたわけ  

我が家、天野家には君主が定めた掟がある。

『バレンタインデーにチョコレートを一番貰えなかったものが家事を行う』

あほらし、と一蹴できないのは、我が家の君主は絶対だからだ。
君主、すなわち我が家の法である者=母親。
男ばかりのこの家で、それまで家事を一手に担い、その上稼ぎ頭である俺たちの母親だ。
父親の権威は地に落ちて久しいというが、特に父親がダメ親父というわけではない。
ただ、我が家では母親が絶対的な存在だというだけだ。
共働きの母親は最強だ。
体力的にも、精神的にも。
男ばかり3人の子どもを養いながら働くということは、息子の俺が言うのもなんだが、かなりハードだ。
3人も暴れ盛りの男がいるのだから、誰かしら問題を起こす。
年子だってのもある。
3男が小学校に入ったばかりの頃が一番だったらしいが、学校から呼び出しがかかったり、部活なんかで怪我をして病院に行くことも多かった。
傷害保険を思い切り利用しているのは、担当世帯でも天野さんのところぐらいです、と保険屋のおねえさんに苦笑された。
くじ運なんかは結構いいほうなのに、PTAの役員決めで沈黙してやりすごすことができず、何かしらの役員を引き受けたり。
家の中のことも・・・まあ、そこそここなしてる。
そこそこ、といいつつ、人が住めない状態なんてなったことはないし、足の踏み場もないなんてことには今までなかったことがないもんな。
あれだけ忙しい姿を見ていて、完璧なんて求める奴は、この家には居ない。
休日も呼び出されて職場に駆けていくことは多々あったし、そんな時は父親が掃除や家事を引き受けていた。
寝る間も惜しんで家事をこなして・・・たわけでなく、塾通いを拒む次男の勉強を見つつ自分も昇任試験勉強に励んでた。
育てば手は離れる。
でも、それぞれに金はかかる。
とりあえず、やりたいということはやらせてくれた。
俺は塾通いくらいだけれど、次男はサッカー、空手。三男はピアノ、スイミング、英会話教室。
試験を受ける理由が、基本給が3万上がるから、だったよ。確か。

ギリギリのところでなんとか回っていた天野家。
けれど、5年前に親父が単身赴任することになり、生活が激変した。
ちょうど母親の昇進が重なった、ということもある。
流石にこれは手伝いとかしなきゃな、と思ってはいた。
俺は高2で、すぐ下の早雪(さゆき)は高1、一番下の雪帆(ゆきほ)は中3で。
それぞれ部活もあったし、自分の時間が最大の優先事項。
やばいな、母さんキレる寸前だな、と感じつつ、それを見て見ぬふりをしてた。
ヤバいヤバいと言いつつ、踏ん張っちまう親の姿を見てきたから・・・イヤ、単に「俺、まだ子供だし」なんて逃げ口上で、どうにもやりくりできなくなってる時だけ気まぐれに手伝うくらいしかしなかった。
弱音吐かない母親が、なんか当たり前になってたから。
財政危機な時だとか、機嫌とらなきゃな時だけ、ちょっといい子な俺でいた。
基本、母親は子どもたちより自分に厳しくて、甘えるのは親父にだけだ。
忙しい時期も1カ月もすれば少し落ち着くし、イレギュラーなことが続かない限り母さんがキレることはなかった。

だけど。
ついにその日は訪れた。

その年は稀にみる大雪で、2月中旬になろうというのに、雪の所為で学校が休校になるなんてめっずらしい出来事があった日だった。
電車が止まった俺も、その煽りで先生が出勤できないなんて事態になった早雪も雪帆も、家でゲームやらPCやらHDに落としてた試合を観たり・・・とにかくダラダラと過ごしていた。
外に雪が降ってるってだけで、室内は快適な温かい空間。
昼飯は母さんが用意してくれてたし、部活もないし。
俺らにとってはただのラッキー。

夕方になり、雪まみれの母さんが帰宅して「あれ、今日仕事あったんだ?」なんて早雪が言って。
「あ〜腹減った! 夕飯まだ?」なんて雪帆が言うから。
「ちょっとコンビニ行ってくるわ」なんて俺も言ったものだから。いや、雑誌の発売日だったんだ。

「・・・あんたたち・・・いい度胸だわね。」

久々に聞いた地を這うような声。
はっと母さんを見遣れば、MAX怒ってる時の笑み。

「仕事あった? だぁ〜? お前は、私の仕事がなんなのか忘れたの? 防災課だっつーの!!!」
あんたたちが寝てた夜中から呼び出されてるわ! と早雪に指を突き立て、次にソファーで寝そべって(さすがに上半身起こしてたけど)いた雪帆に向かうと「母さんは朝も昼も食べてないっ!」と怒鳴り、最後に俺を見据えて「コンビニだぁ!? 夜中から拘束されて、部下に指示出してようやく帰宅できたってーのに"おかえり"の一言もなく、ちょっとコンビニだああ!?」と詰め寄った。
母さん、人様に指さしちゃ駄目って言ってるのに、なんて上げ足をとる馬鹿がいて、俺と早雪は思わず雪帆を凄い勢いで振り向いて睨みつけた。
知らないって幸せだけれど、お前、母さんがキレたらどんだけ怖いか! と、雪帆に視線で訴える。
幼い頃に経験してる俺と早雪は、同時に後ずさる。

「そ、それで、今朝はメモだけだったんだ・・・」

なんとか執り成そうと呟けば、ギンと音がするんじゃないかってくらい鋭い視線が俺に向かって投げつけられた。
突き刺さった。絶対心臓に突き刺さってる。
やばい、と本能が警鐘を鳴らして、とっさに「ごめんなさい、俺が悪かったです」とひれ伏してしまう。
ひれ伏しながら、そっと早雪と雪帆に視線を巡らせたけれど、奴らは母さんの視線を避けるようにそれぞれソファーの影や食器棚の陰に身を潜めた。
早雪の奴はソファーからずり落ちて母さんからの死角に潜みながら、「真雪(まゆき)にい、ごめん」と口ぱくしてる。
謝っても駄目だっつーの!
俺だけを的にするつもりだ。
「あいつら・・・」
こういう時、長男なんて損な役割だとホントに思う。
同時に俺の頭の中はフル稼働しだす。
これは非常にヤバい。

キレる。
どうキレる?
母さんが物にあたるとこはみたことない。
やっぱり小遣い減額? 一番堪えるのは雪帆だろう。俺と早雪はバイトするって手もあるけど、中3の雪帆は厳しいだろう。
それともコレクション没収か? 早雪は泣くぞ、コツコツ集めてるサッカー欧州リーグのピンバッチ。あと、DIESELのアクセも。
携帯止められるのもキツイ。

その昔キレた母さんは、親父を背負い投げしてた。
真相は俺たちに語られないまま(親父がどうしても言ってくれるなと懇願した)だ。
しばらく親父が泣いて謝っても口をきいてやらなかった。
あの時の冷えた空気は――もう味わいたくない。

どうしたらいい?

けれど、母さんはふーっと大きく息を吐くと持っていたバックから何か包みを取り出した。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
ラッピングされているそれをひとつ開けて、母さんはおもむろにその中身を口に運んだ。
チョコレート専門店のロゴが入っているそれらに、そうか明日はバレンタインデーだったと思いだす。
ほぼ無関係なイベントだから、忘れていた。
そりゃ貰えたなら嬉しいだろうけど、関係ないっちゃ関係ない。
我が家で一番チョコレートを貰ってくるのは、母さんだし。
母さんは俺たちに(いや、親父にもか)チョコくれたことなんかないしな。

チョコレートがこの世の中で一番好きだという母さんは、口の中に広がる甘さに一瞬だけうっとりとし、その後はーっと重たい息を吐きだした。
誰か知らないけど、母さんにチョコくれててありがとう!! と心の中で感謝する。
とりあえず、総攻撃からは免れた。
母さんのチョコ好きは重症で、父さんと結婚したのは某チョコレート会社に勤務してるからだと言われているくらいだ。
たいがいのことは、チョコレートで解決される。
それくらい、母さんはチョコを愛してる。

しかし、その時ばかりは、その必殺チョコレートでも母さんの怒りは収まらなかった。
不気味なほどの笑顔を張り付け直すと(母さんの部下はこの笑顔を見たら、微動だにできなくなるらしい)、宣言したのだ。

「・・・今年から、バレンタインのチョコレートを一番貰えなかったものが家事を行うことにしましょう」

呟かれた一言に「はあ?」と3つの声が重なったのは言うまでもない。

「家事、って、」
「夕食づくり、洗濯に掃除。一手に引き受けるのよ。」

ソファーに座りなおし声をかけた早雪に、母さんはまだ笑みを張り付けたまま伝える。
いっそ清々しいまでの言い方で。

「そんな、無茶な」
「大丈夫よ、母さんやってたんだし。」
「俺部活とかあるし」
「兄貴たちと違って、受験なんだけど、俺」

サッカー漬けの早雪は不満も露わに身を乗り出す。
雪帆は正当な理由だとふんぞり返る。
ここでも俺が一番分が悪い。

「どうせ、みんな帰り遅いんだから、夕食なんて部活終わってからでも間に合うわ。でもまあ、そうね、夕食が無理なら朝食とお弁当作りでもいいわよ? それは相談に応じるわ。それにね、受験生だって言った雪帆くん? 今日、受験勉強なんてしてたのかしら?」
「・・・そ、れは、息抜きってーか・・・」

雪帆は再び食器棚の陰に身を潜めるように後ずさる。
ふっと鼻先で笑って(わかりきったことだけど)、母さんは「あとは?」と俺たちを見渡す。
怖いもの知らずな早雪が「おーぼー」と呟けば「悔しかったら権力を手にして見せなさい?」と大人げない言葉が返ってくる。

「私は私の為に働いているし、あんたたちの為に犠牲になってるとは思ってないけれど、せめて"おかえりなさい"の一言くらい欲しかったわ。」
「おかえりなさい、お母様!」
「母さん、お疲れ!」

慌てて叫ぶ弟たちに、絶対零度の笑顔が向けられる。
すみません、と小さくなる姿に口の中で馬鹿野郎と呟く。
遅すぎた言葉は、言わない方がいいこともあるっつーの。

「それじゃ、せめて当番制とか・・・」

妥当案だろうと俺が手を挙げて意見すれば、母さんから「却下」と短い言葉で切り捨てられた。

「せいぜい魅力的な男になりなさい?」

高笑いと共に浴室へと消えた母さんの後姿に、弟たちは「冗談だろ」と高をくくっていたけれど。
俺は君主の宣言に、ああ、なんともややこしいことになった、と、ひとり盛大な溜息を漏らしたのだ。
母さんは、やると言ったらやるのだ。


以来、我が家での戦い――チョコレート戦線は今年5年目を迎えるのであった。

モクジ
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