言葉にはしないけど。 ― Sequel 

1,

「それじゃ、行ってくるよ?」

小さな声がそう囁いて、私の頬に温かな感触が触れた。
目を開けたくて重い瞼に力を入れると、それを遮るように瞼にも落ちる。

「起きなくていいから。眠れなかったんだろう?」

そうだけど、でも。

睡魔に小さく抵抗してみるも、優しい掌が頬を撫でるからついその手に擦りよってしまう。

休日だからって本当はいつまでも寝ていちゃいけない。
私の旦那さんは・・・くうは、今週一日も休んでいないというのに。
大学との共同プログラムに継続参加することになって、休日もなんだかんだと出勤することが多い。
それでなくても、新年度が始まったばかりで教師は何かと忙しい。
同業者として、それを誰より知っているのに、朝食の用意すらしていない。

夜中に目が覚めて、それからまったく眠れなかった私は、疲れて眠るくうを起こさないようにリビングで夜を明かした。
ソファーのひじ掛けにもたれ、両足を伸ばす。足元を冷やさないように、と、くうが買ってくれた膝かけでくるりと下肢を覆って、借りてきた小説を読んで居た・・・はずだった。

ここのところリズムが乱れて、夜中に目が覚めてしまうのだ。
それも大事な変化らしいけど、と、くうは少し心配そうに気遣ってくれる。

でも、今私が横になっているのは、ベッドの上だ。
きっとくうが運んでくれたのだろう。気がつかないなんて、なんて鈍感なんだろう。きっと凄く重かったと思うのに。

「・・・・」
「ん。行ってくるよ。ゆっくりしてて。」

せめてお礼を言わなくちゃ、と、なんとか目を開けようとするのに、くうはそんな私に魔法をかけるかのように優しく髪を梳いた。
どんなにつらい時も、苦しい時も、この優しい手が安らぎを与えてくれる。それはどんな魔法より強力で、私を溶かしてしまう。
心の中で「ごめんね」と呟くと、まるでそれが聞こえたかのようにくすっと笑って、くうは「おやすみ、そら」と優しく優しく口づけた。

(ホントは、おはようのキスの時間なのに)

眠り姫はキスで目覚めるのに、私はその甘やかな口づけで深い眠りへと誘われてる。
ふわり、と、くうの纏う香りが私を包み込むから、私はこれ以上ない程に幸せな気持ちで眠ってしまう。
もうちょっと奥さんとしてのスキルあげなくちゃ、なんて、こんな状態で思ってる自分がちょっと情けない。





「ふゎぁっ・・・」

しばらく降り続いた雨がようやく上がり、私は室内に干していた洗濯ものをベランダに出しながら、眼下の公園を見つめて欠伸を噛み殺した。
日差しは柔らかで、まるで再び眠りを促すかのような心地よさだ。
子どもたちの元気な声が公園から聞こえてくる。
お日様が顔を出したとはいえ、まだ地面はびしょびしょだろうし、遊具も雨水で濡れていると思うのに、待ちかねた様子の子どもたちが元気な声を上げている。
水たまりを飛び越えたり、早く早く! と父親と思しき人を急かして駆けていく姿が可愛らしい。
子どもたちだけじゃない。
大人だって待ち焦がれていただろう。
桜は散ってしまったけれど、春の花たちは色鮮やかに咲いている。
雨上がりは草花をより一層美しく際立たせる。
きらきらと雨粒が反射するから、私は目を細めて見つめた。

春の風が雨と土の混ざった匂いを運んでくる。
眠気と戦っていた私はその空気を吸い込んで、頬をぱちんと音をたてて両手で挟んだ。

(もう、目を覚まさなくちゃ)

あと数十分したらお昼だ。くうが居ないとはいえ、だらけてばかりもいられない。
休日にやらなくちゃいけないことは山積みだ。
昨日ほとんど一日がかりで出かけていたから、普段は分散している家事が一点集中してしまった。――日々、しっかりやっておけばいいのだから、これはたんなる言い訳だってわかってるのだけれど。

「ええと、まずは掃除機をかけて、それからトイレの掃除をして、あ、本も返しに行かなくちゃ。」

もちろん買い物も行かなくちゃいけない。いつも通りのことだけれど、今はちょっと自分の処理能力に自信がないから溜息が出てしまう。

(持ち帰りの仕事がなくて、よかった。)

頭の中でこれからやることをリストアップしながら室内に戻る。
昨晩もいまひとつ調子が悪くて、夕ご飯は手抜きになってしまったから、今夜はしっかり作らなくちゃ。
そう思いながら室内を見回すと、ダイニングテーブルの上にメモを見つけた。
くうの筆跡。

"俺が帰るまで、いい子で留守番してること!"

メモを手にして胸がじんわりと温かくなる。本当に、くうには敵わないと思う。

"なるべく早く帰るから、買い物は一緒に行こう?"

私は小さく「はい」と返事して、顔がにやけていることに気がついた。
たった2行で、くうをもっと好きになってしまう。
メモの下には、小さな手帳。
きっと、仕事に行くギリギリまでそれを見て居たのだろう。
昨晩も熱心に見入っていた。書かれたメモも、白黒の画像も、それはもう嬉しくて仕方ないというように見つめていた。

(一緒に行きたいって言ってたものね。)

くすっと笑って、私は椅子を引いて座った。
そして、手帳――母子手帳を手にして、そっと開いた。

不安がないといえば嘘になる。
どうしても、不意に失ってしまった日に重なってしまうことがある。
診察室でひとりベッドに横たわることが、怖くて仕方ない。心音が確認できるまで、思わず祈ってしまう。
お願いだから、聞こえて。元気でいて、と。
極度の緊張で、帰宅した時にはぐったりしてしまった。
相変わらず悪阻も続いていて、この時期には悪阻がおさまった楓花ちゃんとくらべて、いつまでたっても頼りなくて心許ない。
次回の予約は入れてきたけれど、くうが一緒に行けるかどうかはまだ未定だ。


私としては一緒に行ってもらえるのは心強いし、私の下手な説明なんかじゃなくて、リアルにエコーや3D画像を見れたらくうはもっと嬉しいだろうな、と思う。
そう伝えた私をそっと抱きしめて、くうは囁いた。

「そらが一生懸命伝えようとしてくれてる姿も、とっても可愛くて捨てがたいな」
「ふぇ・・・!?」

思わず素っ頓狂な声がでてしまうのは、仕方がないと思うの。
くうは楽しそうに笑って、小さな膨らみに手をあてる。
優しく優しく撫でながら。


昨晩を思い出して、胸の奥がきゅんとする。
切ないまでの愛しさが、胸に溢れてくる。

(くうも・・・あなたも・・・とても大切。それなのに、私だけ、甘えちゃってる・・・これじゃ駄目だよね)

苦笑いすると、小さな振動が身体の中で起こる。
思わず俯いて、目を見開く。

「あ・・・!」

(胎動・・・?)

それは不思議な感覚だった。
おなかのなかで、何かがぐるりと動いたような感覚。
強く、存在を感じた。
膨らんでいくお腹を見ていても、悪阻で苦しくても、健診で心音を聞くまでは、どうしても不安で仕方なかった。

「あ、また!」

励ましてくれてるのだろうか?

"私はここに居るよ"と。
”そのままでいいんだよ”と。

泣きたくなるくらいの幸福感。
情けないな。私の方が励まされてる。

それでも、少しずつ、くうとあなたを守れる存在に成長していきたいと思う。

(ありがとう・・・)

心の中で応えて、腕まくりをした。

「まずは、掃除!」

くうが帰ってきたら、真っ先にこの出来事を伝えよう。朝、伝えられなかった感謝の気持ちと共に。

きっと、くうは、私が大好きな笑顔を見せてくれるだろう。
私と、お腹の中の赤ちゃんに向けて。




2011,9,21up

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