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畠山重忠の乱
畠山氏の滅亡

岡戸事務所
編集:岡戸事務所

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 畠山重忠は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵したときは、平家方の大庭景親に従っていたが、頼朝が安房に渡り、鎌倉を目指すとこれに従った。

 源平合戦でも活躍し、多くの伝説を残した武将。

 頼朝の死後、北条時政の謀略によって一族もろとも滅ぼされた。


畠山重忠像
畠山重忠公
史跡公園

(深谷市)
菅谷館跡
菅谷館

(嵐山町)





〜牧の方の陰謀〜

 北条時政は、1200年(正治2年)梶原景時を追放、1203年(建仁3年)比企能員を暗殺するなど、源頼朝以来の有力御家人を滅ぼしてきた。

 将軍頼家も時政によって暗殺された。
 その謀略は、畠山重忠にも及んだ。

 1204年(元久元年)、源実朝が坊門信清の息女を妻として迎えることになり、畠山重保(重忠の嫡子)らが上洛した。

 平賀朝雅邸で酒宴の席が設けられたが、朝雅と重保が言い争いとなる。

 根に持った朝雅は、北条時政の後妻牧の方を通じて、時政に畠山重忠父子の謀叛を訴えた(朝雅は、牧の方の娘を妻としており、新羅三郎義光を祖としている。)。

 時政は、子の義時に畠山謀叛の話をしたが、義時は、畠山がそのような企てをするはずがないとして、畠山討伐には反対していた。

 しかし、牧の方に迫られた時政は、稲毛重成を利用して畠山謀叛を将軍実朝に訴え、実朝より畠山討伐の命を受けることとなる。


 平賀朝雅の父は義信。義信は、平治の乱源義朝に従い、勝長寿院では、源頼朝の命により義朝の埋葬を行った武将。
 源頼朝の信頼を得て、頼朝の死後も源氏の重鎮として存在していた。



〜畠山重忠の最期〜

 まず、襲われたのは鎌倉にいた畠山重保である。

 1205年(元久2年)6月22日早朝、謀反人が由比ヶ浜に集結しているという虚偽の報告を受けた重保は、郎党3名を連れて由比ヶ浜に駆けつけると、北条時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。


畠山重保の墓
畠山重保墓
(鶴岡八幡宮一の鳥居横)


 一方、畠山重忠は、鎌倉で騒動が発生したとの虚偽の報告を受け、菅谷館を出発し鎌倉へ向かっていた。

 その道中で重忠を討つため、北条義時らが鎌倉を発ち、6月22日午後、武蔵国二俣川で衝突した。

 激戦が繰り広げられたが、愛甲三郎季隆の矢を受け重忠は討死した。

 重忠は、たった150騎を従えていたのみで、途中で子重保の死を知り、家臣からは引き返すよう進言されたが、「潔く戦うことが武士の本懐」として幕府軍を迎え撃つことにしたのだという。


畠山重忠終焉の地
畠山重忠終焉の地
(横浜市旭区)
畠山重忠公首塚
畠山重忠公首塚
(横浜市旭区)


 畠山重忠を射た弓の名手愛甲三郎季隆は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦では、和田義盛に味方し一族ともに滅んだ。







〜北条時政の追放〜

 重忠軍を破った北条義時は、重忠軍がたった150騎余りだったことで、畠山謀叛が父時政の謀略であることを改めて確認した。

 この事件後、畠山謀叛を言い立てた稲毛重成は、義時の命によって討たれている。

 また、北条時政と牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚し、時政らは伊豆に隠居することとなる(閏7月19日)。京にいた平賀朝雅は追討軍によって討たれた(閏7月26日)。

 この一連の事件によって、北条義時が時政にかわって政所別当となり、執権の座に就いた(参考:畠山重忠殺害と北条氏の世代交替)。


 「畠山謀叛」を言い立てた稲毛重成は、畠山一族であったが、何故時政に従ったのかは不明。

 参考までに、重成時政の娘を妻としていた。また、源頼朝重成の妻の橋供養の際に落馬し、命を落としている(参考:旧相模川橋脚 源頼朝落馬の地)。


北条時政の墓
北条時政墓
(伊豆の国市:願成就院)
稲毛重成の墓
稲毛重成の墓
(川崎市:広福寺)





 畠山重忠の乱によって、桓武平氏の名門畠山氏は滅亡するが、重忠の妻は北条時政の娘で、のちに足利義兼の子義純の妻となった。

 義純が畠山の名跡と旧領を継いでいる。
 これによって畠山氏は、源氏の家系となる。

 室町時代に足利将軍家の下で活躍する畠山氏はこの家系。






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