まず、襲われたのは鎌倉にいた畠山重保である。1205年(元久2年)6月22日早朝、謀反人が由比ヶ浜に集結しているという虚偽の報告を受けた重保は、郎党3名を連れて由比ヶ浜に駆けつけると、北条時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。
一方、畠山重忠は、鎌倉で騒動が発生したとの虚偽の報告を受け、菅谷館を出発し鎌倉向かっていた。その道中で重忠を討つため、北条義時らが鎌倉を発ち、6月22日午後、武蔵国二俣川で衝突した。激戦が繰り広げられたが、愛甲三郎季隆の矢を受け重忠は討死した。
重忠は、たった150騎を従えていたのみで、途中で子重保の死を知り、家臣からは引き返すよう進言されたが、「潔く戦うことが武士の本懐」として幕府軍を迎え撃つことにしたという。 |