〜前哨戦〜
1242年(仁治3年)、四代執権となった北条経時は、名越光時らが四代将軍藤原頼経と組んで北条得宗家に代わって幕府の実権を握ろうとしていたため、頼経を廃し、子の頼嗣を将軍に据えた。
1246年(寛元4年)、経時が病気となったため、経時の弟時頼が五代執権となる。
名越光時らは、前将軍頼経らとともに時頼打倒を考えるが、失敗に終わり伊豆の江間に流された。前将軍頼経も鎌倉を追放された(宮騒動)。
三浦泰村は、以前より将軍藤原頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていたため、時頼からは危険視されていた。 |

宝治合戦の戦端が開かれた筋違橋
〜宝治合戦〜
藤原頼経の護送には、三浦光村(泰村の弟)が加わった。その際、「後日、必ず鎌倉に迎える。」と言ったことが、時頼の耳にも伝わった。時頼は、泰村に暴挙は慎むよう諭したが、三浦氏の不穏の動きは鎌倉中に知れ渡った。
実際に泰村は武器、武具、食料を由比ヶ浜につけ、三浦邸に運ばせていたようである。
その後、時頼と泰村との間で、様々な駆け引きが行われた。
そんな折、時頼の外祖父で三浦氏と勢力を争っていた安達景盛が、子の義景、孫の泰盛に命じて三浦邸を襲撃した(1247年(宝治元年)6月5日)。これに対し泰村が反撃をし、時頼も三浦邸を襲撃を決定したため、一気に合戦の火ぶたが切られた。 |
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三浦邸は、現在の横浜国立小学校の敷地の一部だった。 |
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