鎌倉手帳(寺社散策)


承久の乱
後鳥羽上皇の北条義時追討の院宣


編集:岡戸事務所
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後鳥羽上皇ら三上皇が祀られる今宮
 1219年(承久元年)、三代将軍源実朝が暗殺されると、母の北条政子が鎌倉殿の代わりを務め、政子の弟義時がこれを補佐した。2月、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えたい旨を申請するが拒否されている。
 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は流鏑馬揃えを口実に兵を集め、義時追討の院宣を発した。上皇方の武将の中には、三浦胤義(三浦義澄の末子)らも含まれていた。また、鎌倉の三浦義村ら有力御家人にも使者を送っている。

 後鳥羽上皇としては、北条義時追討の院宣を発したことによって、朝敵となった義時に味方する者はほとんどいないと考えていたようである。
 また、上皇に味方した三浦胤義なども、「兄義村は必ず味方する」といっていたようで、上皇方はかなり楽観的に考えていた。
 しかし、義村は使者の持ってきた院宣を幕府に提出してしまう。また、北条政子は後鳥羽上皇挙兵の報に動揺する御家人に対し、「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めたという。

〜上皇方の敗北〜
 幕府では当初、箱根・足柄で上皇軍に徹底抗戦するという慎重論が渦巻いていたが、大江広元によって出撃が主張され、軍勢を東海道・東山道・北陸道から京に向けて派遣した。その数19万騎に達したという。
 この攻撃によって上皇方は完全に敗北し、後鳥羽上皇は隠岐島に、順徳上皇は佐渡島に流された。討幕計画に反対していた土御門上皇も自ら土佐国へ流された(参考:今宮(新宮))。


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