鎌倉手帳(寺社散策)


梶原景時の変
梶原景時の失脚と討死


編集:岡戸事務所
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御霊神社(梶原)
 梶原景時には、石橋山の戦いで敗れて逃亡する源頼朝を助けたという伝説や、源義経との対立、上総介広常の暗殺などの話が残されている。和田義盛から侍所別当の職を奪ったこともある。
 頼朝にとっては、いなくてはならない者であった一方、讒言によって多くの御家人が失脚していることから、御家人の間では恨まれていたところもある。



〜弾劾状の提出〜
 1199年(正治元年)、源頼朝がこの世去った半年後、侍所で結城朝光の「忠臣は二君に仕えず。」という発言が、梶原景時の「将軍頼家への謀叛である。」という讒言を生んだ。そのことを朝光に告げたのは、北条政子の妹阿波の局(保子)であったといわれている。
 驚いた朝光が三浦義村に相談すると、和田義盛畠山重忠千葉常胤ら御家人66人による景時に対する弾劾状が作成され、政所別当大江広元に提出された。
 広元は、頼家への提出を考えていたが、和田義盛が強迫されて提出したといわれている。
 この弾劾状に北条時政義時父子の名は連ねられていない。しかし、事を大きくしたのは時政の娘阿波局の発言である。

〜景時の最期〜
 景時は、将軍頼家に呼ばれ事情を聴かれたようであるが、何も弁明もせず相模国一宮に下向する(参考:梶原景時館址)。
 そして、鎌倉から完全に追放された。
 1200年(正治2年)、景時は京へ向けて一宮を発ったが、駿河国清見関で在地武士との間で合戦となり、嫡子景季とともに討死にした。頼朝の死からちょうど一年後のことであった。
 『吾妻鏡』には、景時の上洛の理由を武田有義を将軍にするためと書かれているが定かではない。
 参考までに、駿河国は、北条時政が守護を務めていた地。



参考:梶原景時の追放  梶原景時の墓



梶原景時の変
北条時政という武将
梶原景時館址・・・一宮館






〜その後の将軍頼家は・・・〜
 景時は、将軍頼家の乳母夫を務めており、頼家にとって景時の失脚は大きな損失だった。
 1203年(建仁3年)5月には、頼朝の弟全成が謀叛を企てたとして捕らえられ誅殺された(阿野全成の誅殺)。この謀叛の企ての影には北条時政がいた。
 同年9月、こちらも頼家の乳母夫であった比企能員が北条時政に暗殺され、一族は北条義時らによって討たれた(比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。
 頼家修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡(okadoのブログ)



 建長寺では、毎年7月15日に「三門梶原施餓鬼会」が行われている。
 これは、梶原景時の霊が蘭渓道隆と会ったことがきっかけで行われるようになったといわれている(参考:梶原景時の墓)。


三門梶原施餓鬼会

建長寺の三門梶原施餓鬼(okadoのブログ)





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