将軍義教の死によって鎌倉公方が復活したが、関東管領となった憲忠は、足利持氏の時代に関東管領を務めた憲実の子であったため、成氏を支持する旧持氏派と上杉憲忠を支持する反成氏派の対立を生んだ(参考:永享の乱)。
1450年(宝徳2年)、山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の太田資清によって成氏が襲撃される事件が起こる。成氏は江ノ島に逃れた後反撃し、長尾軍と太田軍を退けた(江の島合戦)。この事件は、室町幕府管領畠山持国の調停によって和睦がなったが、長尾景仲と太田資清の処分はなかった。
1452年(享徳元年)、管領が畠山持国から細川勝元に変わると、関東は再び幕府の統治下に置かれることとなる。
1454年(享徳3年)、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に招き謀殺した。
山内上杉家は、憲忠の後継者を弟房顕とし、幕府は房顕援護のために今川範忠を起用し、成氏討伐に向かわせた(享徳の乱)。
1455年(康正元年)、範忠は成氏を破って鎌倉に入った。成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになる。以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続くこととなる。
成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることとなる。 |