鎌倉手帳(寺社散策)


中先代の乱
北条時行の反乱と室町幕府の成立


編集:岡戸事務所
カスタム検索


〜鎌倉を知って鎌倉観光をより楽しく。〜







〜北条時行の反乱〜
(中先代の乱)

 1333年(元弘3年)、新田義貞鎌倉攻めによって鎌倉幕府は滅んだが、後醍醐天皇の「建武の新政」は武家には指示されなかった。
 そんな中、武家よりの公家西園寺公宗が後醍醐天皇を暗殺しようとしたが失敗に終わっている。公宗が匿っていた北条泰家(高時の弟)は逃れて全国の北条残党に挙兵を呼びかけた。
 1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が挙兵した。時行は、幕府滅亡後、信濃に逃れていたが、諏訪頼重に担がれて幕府再興を目指したのである。



 当時鎌倉には、足利義詮(尊氏の嫡子)が治め、足利直義尊氏の弟)が成良親王を奉じて下向していた。しかし、時行軍は、次々に足利軍を撃破し、7月25日鎌倉に入った。
 直義と成良親王、義詮は、鎌倉を逃れて敗走した。このときに直義は淵辺義博に命じて東光寺(現鎌倉宮)に幽閉していた護良親王を殺させている(参考:理智光寺跡 護良親王の墓)。


護良親王が幽閉されていたとされる土牢(鎌倉宮


 北条時行の反乱は、鎌倉時代の北条氏を先代と呼び、次の代となる時行を中先代と呼んだことから、「中先代の乱」と呼ばれている。

 1334年(建武元年)、護良親王は、後醍醐天皇や足利尊氏と対立し、尊氏に預けられ鎌倉に幽閉されていた(参考:鎌倉宮)。

 北条時行軍は、鎌倉に攻め入った際に暴風雨に襲われた。この時、大仏殿(鎌倉大仏)の棟梁が折れ、中に避難していた兵士500人が圧死したと伝えられている。


〜足利尊氏の出陣〜
 この知らせを聞いた足利尊氏は、時行討伐のため、後醍醐天皇に征夷大将軍の職を求めたが、天皇はこれを拒否した。そのため、尊氏は勅許を得ないまま鎌倉へと出陣することになる(のちに征東将軍の職が与えられた。)。
 三河で直義と合流した尊氏は、そのまま時行軍を撃破し、8月19日、鎌倉を奪還した。
 時行は逃れたが、諏訪頼重らは、勝長寿院で自刃したと伝えられている。






〜室町幕府の成立〜

足利尊氏が後醍醐天皇を裏切る覚悟をしたという浄光明寺
 鎌倉に入った足利尊氏は、後醍醐天皇の帰京命令を無視し、建武の新政から離反する意志を固めた。尊氏の離反によって、後醍醐天皇は新田義貞を尊氏討伐に向かわせることとなる。
 1335年(建武2年)12月8日、尊氏は鎌倉を発ち、新田軍を破り京に入った(北畠顕家らの攻撃によって一時九州に逃れるものの、再び京を奪還した。)。1336年(建武3年)、『建武式目』を定めることによって室町幕府の成立をみる。そして、1338年(延元3年)には征夷大将軍に任じられている。



 鎌倉を逃れた時行は、のちに南朝(大覚寺統)に味方して各地で戦うことになるが、1353年(正平8年)5月20日、捕らえられて、龍口の処刑場(参考:龍口寺)で最期を迎えた。


龍口寺の龍口刑場跡

北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜





鎌倉の合戦・謀叛・暗殺の歴史トップ

鎌倉手帳トップ 鎌倉検定のページ
(3級・2級・1級の問題と解説)
カスタム検索