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源範頼の謀叛
曾我兄弟の仇討ちと範頼の最期

岡戸事務所
編集:岡戸事務所

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 源範頼は、源義朝の六男。源頼朝の異母弟。

 いつ頼朝に参戦したかは不明だが、弟義経とともに、宇治・瀬田の戦いにおいて木曽義仲を討ち、一ノ谷の合戦、九州進軍を経て、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした。

 その後奥州合戦にも参戦し、源氏一門として鎌倉幕府でも重きをなしていた。



 1193年(建久4年)、源頼朝富士裾野の巻狩りを行うが、その折に起きたのが「曾我兄弟の仇討ち」である(参考:相模の武将「曾我兄弟」)。

 曾我十郎祐成と五郎時致の兄弟が工藤祐経を討った事件だが、鎌倉には頼朝も討たれたいう報が流れてしまう。

 うろたえる北条政子範頼は、「私がいるから大丈夫だ」と言ったといわれている。
 後日、この言葉が謀叛の疑いをかけられる原因となった。

 範頼は、謀叛など考えていないことを「起請文」として頼朝に提出するが、ここでまた問題が発生する。

 起請文に「源範頼」という署名をしてあったことが頼朝の怒りに触れてしまうのである。
 「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」と頼朝は激怒したという。

 「源」の姓を名乗るいうことの重要さを範頼は理解していなかった。

 数日後、頼朝の御所に範頼の家臣で当麻太郎という者が忍び込み捕らえられた。

 「起請文の件で怒りをかって以来、何の沙汰もないことから、様子を窺いに来た」と弁明したようであるが、範頼の命で頼朝を暗殺しようとしたと判断され、範頼は伊豆修禅寺信功院に幽閉された。



 修禅寺に幽閉された範頼は、間もなく梶原景時に攻められ自害したと伝えられている。

 伊豆修善寺温泉には、範頼の墓が残されている。

 範頼の最期には異説もあって、越前に落ちて生涯を終えた説や、武蔵の吉見に逃れて吉見氏となった説などがある。

 また、横浜市金沢区には、修禅寺を逃れた範頼が最期を遂げたとする太寧寺があり、本尊が範頼の念持仏という薬王寺がある。


源範頼の墓
修善寺の源範頼墓
(伊豆市)

源範頼の墓
太寧寺の源範頼墓
(横浜市)
石戸蒲ザクラ
石戸蒲ザクラ
(埼玉県北本市)







曾我兄弟の墓
曾我兄弟の墓
(小田原市・城前寺)



曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)

源頼朝の弟範頼(okadoのブログ)

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