
安達邸址 |
安達泰盛の幕政改革は、執権貞時や貞時の御内人の実権を奪うもので、御内人で内管領の平頼綱の反感をかった。
泰盛の子宗景は、先祖景盛が源頼朝と縁があったとして「源氏」の姓を名乗るようになったといわれている。これを頼綱は謀叛としてとらえ貞時に報告している。
1285年(弘安8年)11月17日、頼綱は、多数の軍勢を貞時邸に隠しておき、出仕した泰盛父子を攻撃した。これによって合戦となり、将軍御所が炎上し、鎌倉中が戦乱に巻き込まれたが、安達軍の敗北に終わり泰盛父子は討死した。
この合戦で、有力御家人500人が戦死したと伝えられている。泰盛の娘を妻としていた金沢顕時も上総国に流されている。
霜月騒動後は、平頼綱が実権を握るが、恐怖政治を行ったため、1293年(永仁元年)に執権北条貞時によって滅ぼされた(平禅門の乱)。 |