鎌倉手帳(寺社散策)


霜月騒動
安達泰盛の滅亡


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 1284年(弘安7年)、八代執権北条時宗が亡くなると、時宗の子貞時が執権となった。
 六波羅探題南方の北条時国は、時宗の死に乗して自らが執権の座に就こうとしたことが露見し、捕らえられて常陸国に流された後誅殺されている。
 そして、貞時の外祖父安達泰盛が、まだ若い貞時に代わって政治の実権を握り、将軍中心の政治とする改革を行った。


〜霜月騒動〜

安達邸址
 安達泰盛の幕政改革は、執権貞時や貞時の御内人の実権を奪うもので、御内人で内管領の平頼綱の反感をかった。
 泰盛の子宗景は、先祖景盛源頼朝と縁があったとして「源氏」の姓を名乗るようになったといわれている。これを頼綱は謀叛としてとらえ貞時に報告している。
 1285年(弘安8年)11月17日、頼綱は、多数の軍勢を貞時邸に隠しておき、出仕した泰盛父子を攻撃した。これによって合戦となり、将軍御所が炎上し、鎌倉中が戦乱に巻き込まれたが、安達軍の敗北に終わり泰盛父子は討死した。
 この合戦で、有力御家人500人が戦死したと伝えられている。泰盛の娘を妻としていた金沢顕時も上総国に流されている。
 霜月騒動後は、平頼綱が実権を握るが、恐怖政治を行ったため、1293年(永仁元年)に執権北条貞時によって滅ぼされた(平禅門の乱)。

 御内人とは、得宗家の家臣で、そのトップを内管領という。5代執権北条時頼以降は、執権政治というより得宗政治であったため、御内人の権威は大きかった。

 御家人の中には、安達泰盛の政治に不満をもつ者と、得宗の御内人に不満を持つ者がいたため、幕府を二分する合戦となった。

安達泰盛と平頼綱の対立〜霜月騒動〜(okadoのブログ)



霜月騒動後の安達氏
 霜月騒動によって安達氏の多くが滅ぼされたが、安達泰宗の娘(覚海尼)は、貞時に嫁ぎ、高時と泰家を産んでいる。
 また、のちに北条高時の後見役を務める安達時顕は、霜月騒動で滅ぼされた宗顕の子。娘を高時に嫁がせ外戚となった。
 1326年(正中3年)、十四代執権北条高時が病のため執権職を辞任すると、得宗家の内管領長崎氏と得宗家外戚の安達氏が対立する嘉暦の騒動が起こっている。




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