1213年(建保元年)2月、信濃の泉親衡が二代将軍頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうとする企てが露見した。
加担した者の中には、和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長などもおり、2月16日には一網打尽にされている(計画の首謀者130人、一味は200人に及んだ。)。その約半月後、親衡は筋違橋に隠れていたところを襲われたが、どこかへ逃亡したという。
領国の上総国にいた和田義盛は、3月8日鎌倉に戻り、将軍実朝と北条義時に嘆願をした結果、これまでの忠勤から子の義直、義重は宥された。翌日、一族98人を引き連れて御所に参り、甥胤長の宥免を嘆願したが認められず、縛られたままの胤長は二階堂行村に引き渡された。義盛は大いに面目を潰された形となった。これが、義盛に対する北条義時の挑発のはじまりと考えられる。
胤長は、陸奥に流され屋敷は没収された。 |