鎌倉手帳(寺社散策)


木曽義高の誅殺


編集:岡戸事務所
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 木曽義高は、源頼朝と父木曽義仲の武力衝突の際、和議の条件として鎌倉に人質として送られてきた。清水(志水)の冠者とも呼ばれる。
 木曽義仲は、1183年(寿永2年)、京を攻め平家を西国に追い出したが、翌年、後白河法皇の要請によって兵を派遣した頼朝によって討ち取られた。
 義高は、頼朝の娘大姫の婚約者として鎌倉に入ったが、父義仲が討たれると状況が一変することとなる。



木曽塚
 源頼朝は、木曽義仲を討ち取ると、義高を誅殺するよう命を下す。
 これを知った大姫は、義高に女装させ逃がしたが、すぐに事が露見し、頼朝は堀親家に命じ、武蔵国の入間川で義高を殺害させた(1184年(寿永2年)4月26日)。
 義高の死を知った大姫は、以後食を断ち病気になってしまった。
 母北条政子は、大姫の病気は義高殺害にあるとして、直接手を下した堀親家の家臣を殺させている。
 討ち取られた義高の首は、常楽寺裏山に葬られたと伝えられている(木曽塚)。

木曽義高の誅殺と大姫(okadoのブログ)



扇ヶ谷の岩船地蔵堂
 1195年(建久6年)、源頼朝は2度目の上洛を果たす。その時、大姫も伴っていた。大姫を入内させるためである。しかし、義高の事件以降病弱だった大姫は翌年亡くなった。扇ヶ谷の岩船地蔵堂には、大姫の守本尊といわれる石造地蔵像が祀られている。
 常楽寺裏山にある「姫塚」は、北条泰時の娘の墓と伝わるが、一説には大姫の墓ではないかともいわれている。



 平清盛に助けられた源頼朝は、自らの体験から、討ち取った武将の子は生かしてはおけないという考えが強かったと思われる。
 のちに、弟義経の子も産まれるとすぐに殺させている(参考:静の舞





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