鎌倉手帳(寺社散策)

秋の鎌倉 鎌倉検定



静 の 舞
〜鎌倉と静御前〜

岡戸事務所
編集:岡戸事務所

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静の舞


 静御前は、京の白拍子です。
 母は磯禅師。

 伝説によると・・・干ばつが続いていたため、後白河法皇は、白拍子100人に「雨乞いの舞」を舞わせます。

 99人までが舞っても雨が降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたといわれています。

 その後、住吉での雨乞いの際に、源義経に気に入られて妾となったのだといいます。


 静は、義経が兄源頼朝と不仲になり、京を落ちるときにも一緒に行動していました。

 九州へ向かおうとした義経一行は、摂津国大物浦から船出しますが、暴風のために難破してしまいます。

 その後、吉野へと逃げますが、吉野で義経と静は別れます。


静の舞
満福寺の襖絵





 義経と別れた静は、京へ帰る途中に捕らえられてしまいます。

 北条時政に身柄が引き渡され、1186年(文治2年) 3月1日、母磯禅師とともに鎌倉に送られてきました。

 源頼朝は、鎌倉に来た静に舞わせようとしますが、静はそれを断り続けます。

 しかし、4月8日、八幡大菩薩に献舞するということで説得され、鶴岡八幡宮若宮の回廊で舞を披露することとなります。

 静は、義経を慕う今様(いまよう・歌)にあわせて舞います。

 工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。


吉野山 峰の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき

しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな


静の舞


 『吾妻鏡』には、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし。上下みな興感を催す」と記されています。

 参列した者のほとんどが「静の舞」に心を動かされたということなのかもしれません。

 頼朝は、静が義経を慕う歌をうたったことから激怒しますが、妻の北条政子は「私が御前だったとしてもあのように舞ったでしょう」と言ってとりなしたのだと伝えられています。

 5月27日、静は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院でも、頼朝の娘・大姫に舞を見せたといわれています。


静の舞


 鎌倉に来た静は、義経の子を身籠っていました。生まれてくる子が男子であったなら、その子の命を絶つことは決まっていました。

 7月29日、静の産んだ子は男子。子は殺害され、その遺体は由比ヶ浜に捨てられたということです。


=静の舞=

4月第2日曜日(鎌倉まつり初日)
15:00〜 鶴岡八幡宮舞殿







 9月16日、静は傷心のまま鎌倉を離れ京に向かったとされていますが、その行方は不明のままです。

 由比ヶ浜に身を投げたともいわれています。


静桜
静桜

 鶴岡八幡宮流鏑馬馬場の傍らには、静の終焉の地の一つとされる福島県郡山市の「静桜」が植樹されています。

 静は、義経を追って奥州平泉に向かいますが、途中で義経の死を知り、義経の菩提を弔うために植えたのが「静桜」なのだと伝えられています。


「静の舞」は、童謡・唱歌「鎌倉」にも歌われています。



〜静の雨乞いの舞〜

 静が後白河法皇の命によって「雨乞いの舞」を舞ったのは神泉苑

 神泉苑は、東寺弘法大師(空海)も「雨乞い祈祷」を行ったという「雨乞いの霊場」として知られた場所です。

 もとは、天皇の禁苑でしたが、現在は東寺真言宗の寺となっています。


神泉苑
神泉苑
(京都)



歴史めぐり源頼朝



鎌倉まつり
鎌倉まつり
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

=静の舞=

4月第2日曜日(鎌倉まつり初日)
15:00〜 鶴岡八幡宮舞殿

鶴岡八幡宮:鎌倉市雪ノ下2−1−31

鎌倉駅東口から徒歩10分






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