鎌倉手帳(寺社散策)

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歴史めぐり源頼朝
〜平清盛の死〜







 1181年(治承5年)閏2月4日、平家の独裁政権を実現した平清盛が、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなります(享年64歳)。

 大陸から伝来したマラリアに罹ったのではないかといわれています。

 九条兼実の『玉葉』には「通風」、藤原定家の『明月記』には「動熱悶絶」とあるようです。


平清盛
平清盛坐像
(京都・六波羅蜜寺蔵)


 『吾妻鏡』は、「3日以後に葬儀行い、遺骨は播磨国山田法華堂に納め、7日毎に仏事をして、毎日は行わないように。京都で追善をしてはいけない。そして、子孫は東国を降伏させる事」 と遺言したと伝えています。

 また、『玉葉』は「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と遺言したと伝えています。







〜平家物語が伝える清盛の死〜

 亡くなる前年、富士川源頼朝に敗走させられ、南都焼討によって寺院勢力と貴族を敵に回してしまった清盛は、何とか事態を切り開こうと、平宗盛を大将として東国へ大軍を派遣することを決定していました。

 しかし、1181年(治承5年)2月27日、清盛は熱病にかかり、翌28日には重体に陥ってしまいます。

 京都の人々は「悪行の報いが来たぞ」とささやいたといいます。

 『平家物語』によると、その病状は、

 「水も喉をとおらず、体が火を焚いたように熱く、清盛の近くによるとその熱さに耐えられない。
 清盛は、ただ「熱い熱い、痛い痛い」と言うばかり。

 比叡山より千手井の水を汲み出して石の湯船に入れ、その中に入ると、水が沸き上がって湯になった。

 筧の水をかければ、まるで石か鉄などが焼けたように水がほとばしって寄りつかず、たまに当たった水は炎となって燃え上がり黒煙が殿中に充ち充ちた」

 というもので、まるで地獄絵の世界です。

 清盛の妻時子も地獄から獄卒が迎えに来る夢を見たといいます。

 その時子は、病臥4日目の閏2月2日、もう絶望と思い、熱さに耐えながら清盛の枕元に寄り、遺言を求めます。

 すると清盛は

 「今生の望み、一事も思い置く事はない。ただ、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見ることができないのが不本意。

 我が死んだ後は、供養塔もたてず、仏事法要も行わなくてよい。直ちに討手を差し向け、頼朝の首を刎ねて、我が墓の前に供えるべし。 これぞ今生の供養である」

 と言ったといいます。

 閏2月4日、板に水を注いで、その上に寝ころばせますが、もがき、息絶え、地に倒れ、遂には、身もだえして跳ね回って最期を遂げたということです。

  『平家物語』は、「あつち死に」と表現しています。





 清盛の死によって平家の力は弱まりますが、西国を襲った大飢饉も平家の勢力を削ぐことになります。

 1180年(治承4年)の異常気象の影響によって、翌年に起こった大飢饉は、翌々年にも波及します(養和の飢饉)。

 頼朝の挙兵からの数年間が休戦状態となっていますが、この飢饉の影響が大きく、兵を動かすことなどできる状況にはありませんでした。

 そのため頼朝は、東国の強化に全力を尽くすことができました。




平重衡の南都焼討

鶴岡八幡宮の造営



源頼朝









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