鎌倉手帳(寺社散策)

秋の鎌倉 ヒガンバナ

FB



歴史めぐり源頼朝
〜平家滅亡〜







 1184年(寿永3年)1月、源頼朝は正式に平家追討の勅命を受けます。

  一方、都落ちをした平氏は、一時、九州太宰府まで落ちのびますが、徐々に勢力を盛り返し、かつて平清盛が夢みた都「福原」まで東進していました。

 2月6日、福原で平清盛の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、後白河法皇の近臣の使者が文書を携えて到着します。

 文書には、「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」 という内容のものだったといいます。

 平家方はこれを信じていたのですが、翌7日には源氏の総攻撃が開始されたといいます(一の谷の戦い)。

  摂津国一の谷の戦いでは、生田ノ森から源範頼が、一ノ谷から安田義定が、そして、背後の山から源義経が攻撃を仕掛けたことで平家軍は大混乱となり、 多くの大将が討ち取られ、南都を焼き討ちした平重衡が生け捕りにされました。

 討ち取られた大将の中には、16歳の平敦盛もいました。
 
 この合戦は、義経の「鵯越の奇襲攻撃」が中心に語られがちですが、合戦そのものが奇襲であり、悪く言えば「騙し討ち」であったと考えられます。

 一ノ谷の合戦後、武士の横領・狼藉の禁止令の発布と、その実行を頼朝が行う旨の勅令が出されます。

 これによって、頼朝は全国の武士の頂点に立ちます。


稲瀬川の碑(鎌倉市)
稲瀬川の碑
(鎌倉市)

 平家追討のため出陣した源範頼を、頼朝はここから見送ったといいます。



〜平家滅亡〜

 一ノ谷の戦いで敗れた平家は、屋島に逃れていました。
 
 当初、頼朝義経を起用して平家を攻めようと考えていましたが、このころから後白河法皇の義経登用が目立つようになり、ついに義経は、頼朝の許しなく検非違使に任官してしまいます。

 怒った頼朝は、義経を解任して、範頼を総大将として西上させることとしました(この対応には諸説あるようです。) 。

 9月に京を発った範頼の東国軍は、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達しています。

 しかし、士気は衰え、侍所別当の和田義盛が「関東に帰りたい」などと言う始末であったといいます。

 こうした状況の中で頼朝は、再び義経を起用することにします。

 1185年(元暦2年)2月17日、義経は風雨のなか出帆して阿波国に渡り、19日の朝には讃岐国の屋島を襲撃します。

 陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上に逃れました。

 熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れた義経は、平家を追い詰めると、3月24日、長門国の壇ノ浦で平家軍を全滅させました。

 平宗盛は捕えられ鎌倉へ送られています。


 教恩寺(鎌倉市)
教恩寺
(鎌倉市)

 一の谷で捕えられた平重衡が頼朝より与えられたという阿弥陀仏が本尊。


 補陀洛寺(鎌倉市)
補陀洛寺
(鎌倉市)
 壇ノ浦で捕えられた平宗盛が持っていたという平家の赤旗が残されています。







平重衡と平宗盛



〜公文所と問注所の設置〜

 西国で平家追討の戦いが行われている間、鎌倉では、政治・財政を司る公文所(1184年(元暦元年)8月14日設置)と、裁判を司る問注所が設置されています(同年10月20日)。

 公文所別当には大江広元が、問注所執事には三善康信が就任しています。


問注所跡碑(鎌倉市)
問注所跡碑
(鎌倉市)




木曽義高の誅殺

義経追放



源頼朝









岡戸事務所
編集:岡戸事務所

FB


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)

鎌倉のハギ お十夜