鎌倉手帳(寺社散策)

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歴史めぐり源頼朝
〜勝長寿院の創建〜







 勝長寿院は、鶴岡八幡宮(寺)、永福寺とともに源頼朝三大寺院の一つで、父義朝の菩提を弔うために創建されました。

 大御堂または南御堂とも呼ばれた壮大な寺院で、奈良の仏師・成朝の「黄金の阿弥陀仏」が安置されていたといいます。

 頼朝は、勝長寿院を建てるにあたって、鎌倉中の景勝地を探して回り、御所の東南にあった霊崛(れいくつ)を造営の場所と決め、1184年(元暦元年)11月26日、土地に縄張りをして基礎造りを始める「地曳始の儀」を執り行います。


勝長寿院跡(鎌倉市)
勝長寿院跡
(鎌倉市)



〜後白河法皇に探索させた
義朝の髑髏〜


 1185年(文治元年)8月12日、後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで義朝の「しゃれこうべ」を見つけ出させ、義朝の郎党鎌田政清の「しゃれこうべ」とともに、大江判官公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。

 8月30日、公朝が鎌倉に到着、遺骨は、文覚の弟子が首にかけていました。
 頼朝は、片瀬まで出迎えて、父義朝と鎌田政清の「しゃれこうべ」を受け取ったそうです。

 頼朝は、勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、後白河法皇に義朝の首の探索を依頼していました。


本蓮寺
本蓮寺
(藤沢市)

 本蓮寺頼朝が再建した寺で、義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれています。

  かつては「鎌倉殿駒牽の松」があったといいます。





〜埋葬〜

 9月3日、義朝と政清の埋葬が行われました。

 埋葬に立ち会ったのは、頼朝と平賀義信・大内惟義父子、毛利頼隆の源氏一門のみで、他の御家人は郭外に止められたといいます。

 大内義信は、新羅三郎義光の孫で、平治の乱義朝に従い、敗戦後、東国に逃れる義朝に従った七人のうちの一人でした。

 毛利頼隆は、八幡太郎義家の孫で、父義隆は、平治の乱義朝の身代わりとなって討死しています。

 一緒に葬られた鎌田政清は、義朝の第一の郎党で、政清の母は義朝の乳母だったことから、義朝と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。

 平治の乱後、東国に逃れようとする義朝に従っていましたが、尾張国で長田忠致の裏切りに遭い、義朝とともに暗殺されています。

 勝長寿院は、翌10月24日に完成し、落慶供養が行われています。


湯殿跡
御湯殿跡
(愛知県美浜町)
源義朝の墓
源義朝墓
(愛知県美浜町)




土佐坊昌俊の義経襲撃

義経逃亡と守護・地頭の設置



源頼朝









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編集:岡戸事務所

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