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歴史めぐり源頼朝
〜奥州藤原氏の滅亡〜







 1189年(文治5年)7月19日、源頼朝は、奥州の藤原泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に鎌倉を出発します。

 頼朝は、朝廷に対し、源義経を匿ったことを理由に「泰衡追討の宣旨」を要求していましたが、泰衡の急襲によって義経が自刃したことにより、その名文が失われてしまいます。

 そのため、朝廷は宣旨の発給を渋っていました。

 しかし、頼朝は、大庭景義の 「軍中は将軍の命を聞き、天子の詔を聞かず・・・」 という進言を受け入れ、総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発しています。

 頼朝にとって、自らの命令が及ばない地は奥州のみとなっていました。すでに義経の事は関係なく、ただ奥州を制圧することのみが目的となっていたのです。

 8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉を焼き払い逃亡しています。


源義経終焉の地
高館義経堂
衣川館
(高館義経堂)
奥州平泉の政庁跡
柳之御所遺跡
柳之御所遺跡







〜泰衡からの助命嘆願〜

 8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しています。

 その内容は、

 「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、 私は全くその事の始まりがわかりません。
 父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。これは勲功というべきではないでしょうか。

 そうであるのに、罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。
 そのため、 先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。
 
 陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、 泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。

 さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。

 もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。
 その是非によっては帰還して参じたいと思います。」

 という助命嘆願でした。

 頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。






〜奥州藤原氏の滅亡〜

 9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。

源氏白旗(八幡大菩薩)

 この頼朝の奥州での合戦は、先祖・源頼義の「前九年の役」の再現だったともいわれています。

 出陣前の7月8日、千葉常胤は、新調した旗二幅を献上しています。この旗は、頼義の旗の寸法と同じで、上方に伊勢大神宮と八幡大菩薩、下方に向かい合った鳩2羽が刺繍されていたそうです。

 この旗の絹を調達したのは、小山朝政でした。これは、朝政の祖先藤原秀郷が、容易に朝敵を滅ぼしたという謂われからのことだったといいます。

 9月6日、泰衡を討った河田次郎が、泰衡の首を持参します。

 頼朝は、その首を、前九年の役で、頼義が安倍貞任の首を「釘で打ち付けて晒した」のと同じように、8寸釘で泰衡の首を打ち付け、晒し首にしたといいます。

 泰衡の首を持ってきた河田次郎は、 「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」 として、斬罪に処せられています。

 その後、泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。

 中尊寺大池の「中尊寺ハス」は、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものです。


中尊寺金色堂
金色堂
中尊寺大池跡
大池跡





持仏堂の建立

上洛:権大納言・右近衛大将



源頼朝









岡戸事務所
編集:岡戸事務所

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