5) 言語学―日本語は理想社会の世界言語

Linguistics - Japanese are the world language of the ideal society.

 

序文

私の全仕事の出立点は、「理想社会」の枠組み、即ち「調和」のイデアにあった。

この「イデア」は、もちろん、文明の為に措定されたものであり、自然とそれを包含する宇宙は「調和」そのものである。イデアの現実化に当たっては、調和と反調和の具体的な措定が必要であった。それは個々の具体的存在に肉薄することである。

それが精神病理学に結実した。「精神病理学」が完成した後にして、初めて「理想社会」の確固とした骨格づくりに取り掛かれる。

社会を形成するに当たっては、互いの意思疎通が必要である。英語圏の世界戦略によって、ほぼ英語が世界語となった。私が物心ついた頃には、英単語が身近にあった。しかし、私が義務教育の段階で、会話や文章としての本格的な英語に接して、これは自然な言語でないと感じた。何よりも語頭にアクセントが来る発音に、気取りを感じて喋るのが恥ずかしい。第二に子音を重ねたり、明瞭な五母音でない、中間的な発音に舌の縺れを感じるとともに、やはり成熟しないヤングの気取りを感じた。

こうした発音は日本語で拗音(私は幼音と呼ぶ)と言われる。一聴すれば発音を深化して複雑化したように思われるが、直音(私は成音と呼ぶ)と言われる日本語の51音(正確には44音)の確かな手応えから見れば重層した谺のように頼りなげであった。言い換えれば喃語そのものであった。

気取り(気障とも言う)と幼さ、これが英語を喋ることの気恥ずかしさに他ならない。そして、このことが、英語が自然な言語でないことの第一要因となる。

 第二要因はその構文にある。日本語ではT.P.O.が先に来て、最後に主格のdoplayliveが来るが、英語では最初に来る。これが不自然である。IとかHeとかの主格を文頭に置くのは、どの言語でも同じである。しかし、日本語ではこの主格を省くことが多い。これは主体性が自然から独立することのないようにする配慮である。主体は個々の存在がそこから生み出され育まれた自然の中に位置していることの表明である。従って、日本語環境に生きる者にとって、常に主格を意識化して立てねばならぬ言語は不自然である。主格の意識的明確化と、それに直に接して動詞が続く、I doI playI liveのような構文は、日本語を操る日本人から見れば、倫理的に不自然である。

日本語の構文では主格「私」をことさら強調しない。また同じ意を汲んで、私が行動する前に、環境世界の時刻、場所、状況を並列に並べ、自然や社会を真っ先に置いて視る。だから、自然や社会、そして個々が私の前に、先に在り、その全時空を判断した後に、はじめて私が行動し、生き得るという謙虚な思想を持つことを語り主に課している。

日本語は自然によってのみ吾が命を得ているという、生物本能に基づいて創造された。もちろん永い年月を掛けて彫琢されたものだろう。

 疑問文でIs this your pen?Do you know? のように、主語をさて置いて動詞が文頭に来るのも不自然であり、What is this? のように、疑問詞を文頭に置くのも不自然である。日本語でも会話の場合に、疑問文に限らず、強調すべき場合には、疑問詞や事柄を先に立てるが、通常の自然な構文では主格が先に来なければならないのは当然のことである。atforoftoon などの前置詞も不自然である。疑問文、疑問詞、前置詞のこの点だけ見ても、英語は機械的に作られていることが分かる。それは自然の中に具体的現実的に生きる存在が喋る言語ではない。構文的には日本語は申し分なく自然の秩序を保っている。

 タイに2年生活して、タイ語環境がタイ人の人格形成を担っていることが分かった。タイ語を日常語として喋っているタイ人のメンタリティは、幼音を多用しているタイ語によって形成された。タイ語の幼音性を更に助長しているのが、語尾にアクセントを置く語彙が大量にあることである。英語のComputer は頭にアクセントがある。日本語の発音を適用すれば、真ん中のpu にアクセントが来るが、振幅は弱く、全体にフラットなアクセントとなる。しかし、タイ語アクセントを適用すれば、語尾のter に尻上がりに長く引き伸ばしたアクセントとなる。Holder でも同じくder にアクセントがあり、タイ人が発音しているのを聴けば、赤ん坊のようだと思うだろう。

 “江戸っ子は宵越しの銭ゃあ(銭は)持たねぇんでぇい。”という江戸弁、また、“しちゃってさぁ”という東京弁は、タイ語に酷似している。“宵越しの銭は持たない”という、その日暮らしの江戸っ子のメンタリティは、そのままタイ人のメンタリティである。そのメンタリティは成人が持つべきものではなく、成人社会に仲間入りして社会的責任を担うことを免れている赤子や子供のものである。

 日本語にも幼音は沢山ある。例えば、擬音や擬声や擬態語に多い。それらの中でも二重語、即ち“しゅわしゅわ“などの繰り返し語は数百語を越すと思われる。二重語のシステムはインドネシアが故郷であると思われるが、アフリカにも多い。

タイに居て初めて聴く鳥の声の多さに驚いたが、鳥の声の多くに幼音が混じっている。”ギシュ〜“と一声、低音で長く唸るのなどはカラスの仲間だと思われるが、尾が長く、黒と茶の渋い判っきりしたツートンカラーが素晴らしい。”ギュチェー“とこれは良く響く高音で鳴く鳥である。鳥は5から6語程度の鳴き声を持っていると思われるが、繁殖期に重唱で賑やかに歌うのが居て、これはちょっと表現不能だが、鳥世界の”ぺちゃくちゃ“である。”ピューチユギュルギュル“と鳴くのは、多分小さな鳥である。日本の雲雀は”ピーチピーチ“と成音に近い鳴き声かも知れない。”チュンチュン“と雀に似た鳴き声のも居た。鳩は日本の山鳩と同じようなのが居て、これも籠もった幼音が混じった声で鳴く。”ポッポッポッポッ“と規則正しく、無限に続けることが出来るのは、呼気と吸気が同時に出来るからかも知れないが、これは頭の天辺が鮮やかな赤で、体はこれも鮮やかなグリーンの小さなインコのような鳥であった。”ポッポ〜ン“と遠くで鳴くのが聴こえて来る。滅多に人家近くには来ない鳥だが、鳴き声の細部まで聞き分けられる近くで聴けば、”ポッ“の次の”ポーン“のパートに、もっと幾つかの子音と母音が挟まって聴こえて来る。”フォフォフォフォ”と4つリズミカルに柔らかく鳴くのも居た。

 タイでは犬の吠え声は“フォンフォン”である。成る程、日本人が聴いてもそういう風に吠える犬が居たことは発見ではあったが、やはり多くの犬は“ワンワン”であった。

“ホッとする”“ホトホト困った”などという発音は英語やタイ語では、“フォッとする”“フォトフォト困った”となるであろう。Hospitalityなどのhoの発音があるにせよ。

 人間も鳥や犬などの動物や昆虫に同じくして、自然の状態では、成音で発音することは少ない。タイ語には成音は無いと言っても過言ではない位に、ほとんどの語は幼音に崩されている。もちろん、ここで言っている幼音は日本語で定義されている狭いものではなく、子音の重ね、中間的な母音や母音の重ねなど、成音以外の一音節発音を全部含めたものである。

 日本語の中の幼音の第二に、漢語がある。漢語を含めた中国語全体では英語のような子音の重ねは無いものと思われるが、しかし、中間成音、例えば、アとエの中間音など日本の母音成音の7倍もある。幼音は多用されているように思えるが、しかし、これは二重母音だと言う。

 日本人は日々、幼音の中に漬かって生活していると言っても良い。しかし、日本語そのものは成音で成り立つ本来の純粋性を、今も保ち続けている。擬音や漢語や英語のミックス言語ではあっても、漢語読みに於いては訓読みと言われる和語は何処までもセパレートに存在している。

 

                 (続く)