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NATHALIE DELON
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ナタリー.ドロン、本名フランシーヌ.カノヴァ。1941年8月1日、モロッコのウジダ生まれ。
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アランと離婚したナタリーは 「 Nathalie Sand
」 という芸名を名乗ろうとしていたが、アランが子供のために父親と母親が同じ名前を名乗るよう希望した。
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ドロンは、まだロミー.シュナイダーと正式に婚約している中、モロッコ出身のスペイン人 Francine Canovas ( 後のナタリー.ドロン )
と出会う。この出会いについてアランとナタリーの供述は異なっている。アランの側では、友人の Poniatowski 王子に彼女を紹介されたと言っている。(
彼女は、離婚調停でフランスに来ていた。しかし、その後彼女は、二度とフランスを離れなかった。)
が、一方、ナタリーの側では、ナイトクラブで彼に偶然出会ったと言っている。彼女は、実名を Francine Canovas
というが、フランスではナタリーと呼ばれることを好んだ。1941年8月モロッコ北部で、スペイン領出身の母と、アルジェリア出身のフランス人の父の間に生まれた。父親は、モロッコで運送会社を経営していたが、彼女が父親に初めて会ったのは8歳の時で、その後も、14歳の誕生日まで再会できなかった。こうして彼女は、母親と二人で、カサブランカの質素なアパートに暮らしていたが、1959年、18歳の時、フランス北部からの召集兵で4歳年上の
Guy Barthelemy
と結婚。結婚式は、カサブランカのフランス領事館で行われた。二人は、その後、モロッコで生活していくことを選ぶ。数ヵ月後、女の子が生まれ、ナタリーと名付けられたが、夫婦の関係にすぐに亀裂が入り、1963年に離婚。娘の父親が親権を取った。彼女は、最終的な離婚手続きが終わらないうちに、パリへの移住を決意したが、娘に会いに、モロッコにも時々帰っている。1963年5月のこと、彼女は、アランから「
黒いチューリップ
」の撮影で一緒にスペインに来ないかと誘われ、乗り気でついていく。その時車を運転していったのは、スモーキングジャケット事件以来顔を見なかった
Chiffre だった。出発直前に、ロミー、アラン、Chiffre、Beaume の4人で普通に食事をしたこともあって、Chiffre
は、ナタリーの突然の出現にただ唖然としていた。アラン.ドロンは、スペインが好きだった。撮影期間中、マドリッド近郊に、豪華な別荘を借りたが、ロミーとアランの破局の噂を聞きつけて嗅ぎ回っている記者たちから逃れるには不十分だった。ドロンは、細心の注意を払ったが、ある日、一人のパパラッチが屋敷に侵入し、ナタリーの写真を撮ったため、Georges
Beaume とChiffre と共に対処することにした。 「 まずは、我々の中では最も社交的な George
が、そのパパラッチにフィルムを渡すよう頼んだ。しかし、パパラッチは、煮え切らない態度を見せた。そこで、苛立ったアランが彼からカメラを奪い、フィルムを取り上げた
」 と Chiffre
は述べている。その後、ドロンは、住居侵入と職業機材破壊のために訴えられ、深夜1時に警察官に手錠をかけられ警察署へ連行されたが、結局は、明け方に釈放された。
撮影は、要求の高い監督のために、ドロンにとっても、スタントマンの Chiffre
にとっても難航した。二人にとって、唯一の慰めとなったのは、ナタリーの尊敬に満ちた眼差しだった。彼女は、二人の大胆なスタントを目を輝かせて見ていたのだった。一方、ロミーは、婚約が破棄されたとは信じたくなかった。1963年は、ロミーにとって人生最悪の年となった。まず彼女が目にしたのは、「 黒いチューリップ 」
の撮影現場の写真だった。「 どの雑誌にも同じ写真が載っていました。椅子に座っているアラン。そして彼の膝の上に座っている女性
」、と彼女は述べている。一時の気まぐれだと信じたかった。アランが、多くの女性を惹きつけずにはおらず、また、彼も女性に好かれることを好むということは、ロミーは承知していたが、この一件は限界を超えてしまった。ドロンとロミーが最後に会ったのは、ローマだった。ロミーは回想する。「
そこでも、いつも同じでした。私たちの間で何も変わっていないかのような。アランは、ハリウッドへ発つ私を空港まで送ってきました。離れてから、最初の数日は、いつものように電話し合い、全くいつも通りでした。ただ一ついつもと違っていたのは、噂がどんどん雑誌に載るようになっていったということです。ナタリーという女性との婚約に関する記事が
」 その後、ロミーのもとに、George Beaume がドロンからの手紙を持ってきた。彼は、「
ロミー、今、君のありったけの力を奮い起こさなくてはならない 」 と言って、彼女にその10枚にも及ぶ長い手紙を渡した。それは、別れの手紙だった。
それから何ヶ月もの間、彼女は苦しんだ。苦しみと絶望が彼女を襲い、彼女と親しい者たちによれば、この別離は彼女にとってまさに悲劇だったという。彼女の友人でジャーナリストの
France Roche は、この別れについて、正式に France-Soir で発表した。彼女は語る。「
ロミーは、結婚のために何もかもをしました。彼女は、アランと生きていくために、すべてを受け入れたのです。でも、アランは、彼女にいつかこう言いました。『
いいかい、簡単なことなんだ。3ヶ月間口論しなかったら結婚しよう 』
と。彼にだって自分の言っていることがどういうことかわかっていたはずです。彼らは、いつも口論していたのですから。別れの後、ロミーは、しばらく精神安定剤を飲んでいました。夜には、信じられないほど彼女の手が震えて…それでも何ヶ月もの間、彼女は、彼を愛し続けました。彼の車にメッセージを残したり。それと同時に、彼女を誘う別の男性たちと出かけたりもしていました。きっと自分にはまだ魅力があるのだと自分に言い聞かせるためだったのでしょう
」この別れについては、また、ドロンのコンプレックスのせいであったのではないかとも言われている。ドロンは、ある日こう言っている。「
彼女は、自分が最も嫌いな階層の生まれだった。彼女のせいではない。ただ、彼女にはその階級の生き方が身についていた。彼女が20年間生きてきたものを、私は5年では消すことができなかった。二人、或いは、三人、四人のドロンがいるように、二人のロミーがいた。彼女にだってそれはわかっている。私は、一人のロミーを何よりも愛し、もう一人を同じくらい憎んだ
」 ロミーの見解は、この意見と同じではなかったが...。 - information from " Les mysteres
Delon " -
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ナタリーは以前、パリのファベール通りのアパルトマンに住んでいたが、1978年に転居。
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ナタリーの身長は、164cm らしい。
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私たち東京12チャンネル「 世界の主役
」取材班が、今、日本の洋画ファンの中で最も人気のある女優、ナタリー.ドロンにインタビューするため、カンヌに来たのは5月のことであった。折からカンヌは、第26回カンヌ映画祭で大賑わい。5月16日夜、ナタリー.ドロンは、パリの自宅からカンヌにやってきた。それは自分が主演したクロード.ミシュロ監督の「
職業は冒険家
」を観るため、全く私的にやってきたとはいうものの、彼女の身辺には4人のガードマンが護衛でついていたということを後で聞いて、さすが花形スターであるという感じを受けたものだった。私達は翌日、カンヌ映画祭のプレスクラブを通じて、早速インタビューの約束をとりつけ彼女の泊まっているホテルへ向かった。それはカンヌからおよそ50キロもあろう田舎町にあるラコムブドールというホテルであった。ここはかつて、あの有名なピカソもパリからのがれて滞在し絵筆を握ったホテルだともいわれ、閑静なたたずまいは、ピカソにぴったりのホテルでもあった。
付近にはフランス特有の石造りの家が起伏の多い丘陵に点在し、ルネサンス以前16世紀頃、いやそれよりもっと以前のものであろうシャトーがすぐ前に見えあちこちには白、紫そして黄色のアジサイが咲き乱れ、オリーブの木が青々と茂り、これらの家を取り巻いているというまさしく地中海沿岸特有の風景をかもしだしているところである。
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1970年頃のナタリーのアパルトマンはパリ7区セーブル街16番地の 3F で郵便受けは 「 MADAM DELON 」 になっていた。
- フランシーヌ.カノヴァ ( 後のナタリー.ドロン )
は、ルイス.カノヴァとアントイネッティ.ロドリゲスとの間の子供である。彼女 ( フランシーヌ )
が19歳の時に、娘を産んだ。そしてその娘は、ナタリーと名付けられた。 - information by Miss. Karina -
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ナタリー.ドロンの好きな色は紫。好きなタバコはジタン。
- ナタリーの食事のメニュー( 30才代の頃
)、フルーツと野菜ジュース。少なくとも一日に3リットルのミネラルウオーター 、焼き魚、ライ麦パン、ワインは飲まずシャンパンを数杯、タバコは数本。
- ナタリーの親友の一人がシルヴィーヴァルタン。
... to be continued
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